馬鹿な中学生が自転車で突っ込んできた・・・

昨日は馬鹿な中学生が私が信号待ちしているところに、自転車で突っ込んできた。
私の自転車は前輪のブレーキが壊れて修理が必要である。
警察に通報すると言ったら、それだけはやめてくれと懇願された。
何度も頼まれたので家の電話番号を聞き、私の携帯番号も教えた。
その日中に母親から電話させるというとこで、折り合って別れた。


電話の中で、事故の経緯を伝え、自転車の弁償を申し出た。
しかし私は停車していたのにもかかわらず、急に視界に入って来たといい始めた。
おまけに馬鹿な田舎の中学生がよくやっているハンドルを上に向けているという事件当日の
車両の状態を、次の日の現場検証の日には直してきていた。


今日の現場検証の時には、中坊は母親連れで来ていたが、どうやらその母親が勝手に証拠を隠滅し、
話をねつ造したようであった。
彼女は息子に事実を偽ることをかくして教えたわけである。
この母親というのは、プリンタで文書をスキャンしてメールで送るという芸当もできないという
低能らしく、その息子(中学二年生)は馬鹿みたいな木偶の坊であった。
この息子はおそらく地方の低級な国立大学にも進学できないであろうアホづらで、
この母親も証拠を隠滅するという不徳なことを何の良心の呵責もなくできる人間らしかった。
低能の上に、道徳もないという猿のような人間であり、というより人間という文字を当てることさえ
憚ってしまうような畜生であった。


現場検証では、まず彼女が警察に相談して、一方的に息子の無罪を訴えた形らしく、
まずは警察が私を悪者扱いから入った。
その後、私は彼女が事実を隠ぺいしていることを伝え、彼女がしどろもどろになる状況を見た警察官が、
次第に私のいうことに耳を傾けていったが、
私が彼女に頼んだ全額保証は、5:5という私の不本意な配分に落ち着いてしまった。


警察官も、初めは彼女の嘘に騙されていたのだが、ようやく私のいうことに耳を傾け始め、
最後には彼女が隠した事実というのがあることを理解し始めて、
ようやくこの配分に落ち着いたのである。


中坊がなんども親と警察にだけは言わないでくれ、と私に懇願し、それに私は同情してしまったために、
大切な証拠は隠蔽され、挙句の果てに悪者にまでされる始末に至ったことは、
間違いなく私の経験不足と低能ぶりによるものであるが、あそこまで人間というのはあくどいものなのかと
初めて知った。
というより、母親になっているのにもかかわらず、あの人格的未熟さが許されるのであれば、
今後日本はどんどん低能化と、それから道徳の欠如に苛まれるのであろうと思った。
中学二年生の子供がいて、30歳を超えているという年代の人間が、見事なDQNなのである。


勿論、私が民度の低い地方に住んでいることは分かる。
ただ、あの馬鹿な人間と一生の一瞬でも同じ土地に住んでいるかと思うと反吐がでる。
この町での警察沙汰は二度目である。今年の初めに一度ヤンキーともめて以来である。
あの時も私は一つも手を出していないのにもかかわらず、手を出していたと疑われた。
罪には問われなかったが、疑われるだけ疑われた。
比較的最近の出来事であるのに、またこんな事件に巻き込まれてしまった。
そしてその度に損な気持ちになっている。


弁護士を雇ってもそもそも元を取れる事件ではないだろうし、
まったく民度の低い地方に住んでいると良くないことに遭遇するのである。
私に社会的地位と金があれば、このような事態にも毅然として立ち向かえるのであるが、
大学生という弱い立場にいるとそのようなことも叶わない。
早く社会人になることが先決であると実感した次第である。


次からは警察への連絡を事件が起こったら必ずしなければならない。
相手がどんないいわけをしようとも、断固しなければならない。
同情に流されてはならない。そのことを身をもって経験した。


また、車両の事故では、横から相手の「前方不注意」でぶつかってきたのであっても、
「車両が少しでも運動中であれば」、ぶつかられた側も「不注意」ということが言えるらしい。
私の自転車は停車していたのだが、相手側が言うには「動いていた」ということらしい。
そして事故原因は私の「不注意」にも責任があるという。
だから横からぶつかられた場合、「車両は断固停止していた」と言わなければならないのである。
車であれば、徐行運転でも「不注意」となる。
道交法というのはどこかおかしいのではないかと思うが、とにかく横からぶつかられた際には
「車両は断固停止していた」といわなければならないし、
追突の場合でも急ブレーキをしていないのにもかかわらず追突されたのであれば、
「急ブレーキは断固していない」ということを主張しなければならない。


私の友人も、同じくヤンキーに車で追突されたのであるが、そういう良からぬ輩に、
過失100%で保証してもらうためには、主張しなければならないことは主張しなければならないし、
「法律を知らない」では随分損なのである。


これが法学部であればまだしも、理系の人間が法律に関して勉強する機会もあまりないし、
さらには道交法などは自動車学校で基礎的なルールを習うだけである。
それでは車に実際に乗るときには、不十分であり、よくよく勉強しておかなければならない。
高い買い物だが、一つこれも経験になった。
次に生かしていこう。


でも今年出くわした二つの事件から考えるに、自衛するには警察では役に立たない。
自前で弁護士をこしらえるか、あるいは自分が弁護士になるかである。
自前で弁護士をこしらえるには、お金がいる。
今の私の資金状況では夢のまた夢である。


しかし、自前で弁護士をこしらえても検察にいじめられて拘置所に入った人間もいる。
彼が本当に罪を犯したかどうかは分からないが、そこまでしても完璧に自衛することはできないのである。
これが世の中の怖さである。
彼ほど金を持っている人間でさえも、有罪か無罪かわからない境界線の事件で捕まるのである。
「疑わしきは罰せず」という言葉で、私の今年の第一の事件でヤンキーは免れたが、
今回は主婦の偽証に警察がまんまとはまって彼らの罪が和らげられた。
いずれも私がドンくさく、詰めが甘いのが悪いのであるが・・・。
確かによい経験にはなった。
ただ、世の中というのは非常に怖いところである。


善悪を決めたり、事故の過失割合を決めたり、そのような示談めいたものが警察の立会のもとに行われる時、
(おそらく彼らにはその権限はないが)
警察が今回のように「第三者」として入ってくるときがある。
彼らは「事故の過失割合」を決める権限はないが、「事故を丸く収めるために」お互い五分五分で
終わらせようとするのである。
そのために「多少強制力を持っているような物のいい方をする」わけである。
しかし、無知な人間はそれを本当に彼らが権力を持っていっているように錯覚をする。
警察というのは、要するに事件が起これば「捜査をしてそれを検察に提出する」というのが
基本的な役割であるのだが、いちいち事件にしていたら彼らも大変であるから、
おそらく法律には定められていないが、「調停者」のような役割をする。
しかし、彼らは表向きは私たちの意見には何の力もありませんが・・・と今回のような事件ではいうのである。
それでも事実上事件を「調停」しようとしてきているのだが、法的にはそのようなことはできないため、
建前としてはそれは言わないが、実際的には「調停」をしようとする。


世の中、大抵の人間は、警察=逮捕する権力を持っていて逆らっては怖い連中だ、と思っている。
特に私などの学生であれば、彼らに逆らって弁護士を雇い言い負かすほどの資金はないので、
彼らが何かの正当な権力を背景にして物を言っているわけではないのは分かるが、
そこはかとなく彼らに暴走されてひどいことをされるのではないかという国家権力に対する無意識的な不安が
先に動き、そしてそれを打ち消すほどの人脈、法律的知識、資金というものが自分にないということを
自覚すると、それに従わざるを得ないのである。
これぞまさに社会というものだろう。


東京大学京都大学という一流大学の法学部が力を持つのもそのためである。
大抵の人間は、公的権力にビクビクして暮さなければならない。
しかし、その傘の中にいると、自分たちがルールを作る側のために(あるいは運用する側のために)
それらに無知無能な多くの人間ほどビクビクしなくてよいのである。


こういうことが大学受験を終えてようやく分かりだした。
権力が怖ければ、自分自身が権力側につけばよいのである。
そのために人間は押し合いへしあいするのである。
いわゆる「不良」は傲岸無知に振る舞うが、彼らが自分が強いと錯覚しているのである。
要するに何も知らないのである。
しかし、したたかな人間は、そこはかとなく権力側につくように努力するのである。
権力の周りにはもちろんお金も集まる。当然である。皆そこにビクビクしているのだから。
世の中そんなものだろう。今年になってそれがよくわかった・・・、遅すぎるな・・・。


思うに、そのためにはなるべく社会に関心を持たなければならない。
事件や事故が日々ニュースや新聞になるが、それは社会常識として知っていなければならない。
何が有罪とされ、何が無罪とされるのか。
理系では数式だけ追うような勉強を日々続けるしかないが、
しかし一方で新聞もきっちりトレースしていかなければならない。
ただ、日々起こる事件や法律の運用結果などを、追い続けるというのも限度がある。
一日の時間は限られているし、多くの人間は自分の専門の仕事がある。
・・・社会で生きるというのはどうにも難しいことである、というのが最近分かった。
「科学新聞」だけではなくて「日経」か「産経」でも読もう。





平穏な生活を送ろうとするなら、膨大な知識が必要である。
それはすごく大変なことである。
社会で生きることはゆえに大変なのである。
平穏な生活をこしらえるというのにも、随分な苦労を人はしなければならない。
いつまでも何も知らない子供では、そのうちにつぶされてしまうだろう・・・。
若者は立ち上がらなければならない。ようやく実感できた。


よく不良ドラマやDQNドラマ(90年代によく流行った)で、出てきた不良が無罪なのにもかかわらず
公的権力に目をつけられて損をする、ということがある。
まるで同情的に描かれるが、それも含めてその人間の弱さなのである。
社会的地位がなかったり、知識がなかったり、そういうものは「弱さ」なのである。
たとえ自分がどれほど「正しい」ことをしている人間だとしても、
それが他人に認知されなければ何にもならない。
何も悪いことをしていないのに、冤罪を押し付けられても、それを跳ね返すほどの知識がないといけない。


手を広げ過ぎても目をつけられる。
一方で平穏な生活を送ろうとしても、それなりの努力がいる。
どう考えても大変すぎる・・・。世の中がぎすぎすしているということなのか・・・。


世間知らずは罪である。ホントに・・・。