精神的にかなりヤバイ、読書

「ぐずぐず」の理由 (角川選書)

「ぐずぐず」の理由 (角川選書)


一昨日くらいに本屋さんに行って買った本。
昔は本屋さんに行ってもときめく本があったのに、最近はなかなかない。
この本も、他に買おうと思う本がないので、適当に買った感じ。
本なんてあまり読んでいなかったから、本を読んで気分を変えたかったわけだけど、
一時的に読んで落ち着いた気分にはなるが、一時しのぎにしかならない。


ほとんど読み飛ばしただけだが、一応感想を。(読んでも全然気分が変わらなかったなぁ)
別に「ぐずぐず」という心理状態を分析した本ではない。
オノマトペ(擬態語)に関する本である。
よくぞ、ここまで擬態語をリストアップして解説したなぁと、その根気に脱帽する。


多少面白い話があったので、抜粋を交えつつ覚書でもしよう。
一体、何のために覚えるのかさっぱりわからないけど。


嬰児が使う母親を名指す言葉に、「ママ」とか「マンマ」とかがある。「マ」という音を使っているけど、
この「マ」は母親の母乳を吸うときの口の形であり、その身体的感覚に根ざした「ママ」という言葉である。
言葉の原形は、このオノマトペが大元となって、人が大人になってから使うような、身体性に根付かないで、
ただ便宜的に物事を指す言葉まで発達するわけだけど、基礎はオノマトペといってもいいようだ。
赤ん坊は、乳房を吸うのに飽きたら、今度は外界を探索しだすけれど、その時彼らが使うのは口である。
口という内臓の末端で、何でもかんでも味わってしまうが、これが「腑に落ちる」という言葉に関連している。
赤ん坊が物事を理解しようとするとき、大人のように言葉を使い物事を把握することができないので、
彼らは対象を口に運ぶことによって、「腑に落とす」という仕方で物事を理解していく。
もちろん理解といっても、その肌触りなどといった性質でしかないが、人間が科学で知ることができるのも、
世界の性質とか法則でしかない。それ自体をトートロジーなしに、性質の羅列なしに語ることはできない。


恋人を愛撫するときも、口や手を使うわけだけど、あれは「腑に落とそう」としているのである。
乳児の頃以来、他者を腑に落とそうとして理解することなどなかった性的に成熟を迎えた人間が、
相手を口で愛撫するというのは、まだ母親と未分化であった赤ん坊の頃の憧憬を思い出させる。
だからこそセックスは快楽なのだろう。


以下抜粋。


人間の発音行為が全身によってなされれずに、観念の嘴によってひょいとなされるようになってからは、
音楽も詩も、みなつまらぬものになっちゃった。音楽も詩も、そんなに仰山ありがたいものではない。
くしゃみとあくび、しゃっくりや嗤うことといったいどこがちがうのだろう?
もし異なるとしたら、それはいくらかでも精神に関係するということだけだろう。

自然科学の発達につれて、われわれの語彙は際限なく膨らんでいるけれども、言葉は真の生命のサインとしてではなく、

言葉は木偶のように枯れて、こわばった観念の記号と化している。
単に他を区別するだけの機能になりさがった。もはやそれ自身には、恐怖も歓喜の響きもない。
やわな論理と貧しい想像によって言葉を連絡するだけのようである。

私が日々、やわな論理と貧しい想像により言葉を連絡し続けるのも、相当頭がおかしくなってしまっているからだろう。
いくら木偶のように枯れた言葉を織り込んでも、それはただのゴミ屑でなににもなりはしない。



今日、なんでこんなに精神が不安定になっているかとか、一昨日から何もする気が起こらないというのは、
おそらく●ナビで下手に就職活動したからだろう。
合同説明会でもなんでも、躁状態になってしたくもない質問をぶつけたりしていたわけだけど、
あれは本当に躁状態だった。今になって鬱状態の波が来ている。
あまり頑張らないでぼちぼち行こう。少なくとも●ナビでの就職活動というのは杞憂を招く。
それよりも私にはすることがある。
でも●ナビというのは、見ていると時間がつぶれるし、少ない倍率で良い条件の企業を探すというのも、
癖になってしまうために、ついついいじってしまうけど、そういうところばかり追い求めると、私は体調が悪くなる。


自分の目と耳でじかに見ないと、私は精神的な不調に陥る。
ただひたすら画面の中の文字を追って、良い条件を探す就職活動というのはどう考えても病的である。
しばらく●ナビは見ないことにしようか。