視野を広く、殻に閉じこもらないように

昨日の科学新聞で視野を広げたのがよかったのか、
気分がふわーっと広がる感覚というのを味わう。
今までの私が如何に自分の殻に閉じこもって、その殻から出ようとしなかったのか。
いままでいろいろな人が私に話しかけたけど、私は多くの場合、殻に閉じこもっていた。


知識を広げたり、他者と交流したり、そのどちらも心は解放感に満たされていることが条件である。
ふわーっと、自分の小さな頭の中をバリバリと破り、その外部へ飛び出していく。
それは精神が自分の頭の中から、身体の中から飛び出していき、
例えばある知識を本当に吸収しようとするときは、私は私の中にはいない。
本当に他者と交わる時、私は私の中にはいない。
私の中を食い破って外にでて、日常の閉鎖感を打ち破る。


これは心の感覚、精神の感覚であって、隠喩や類推で表現しようとしても非常に難しい感覚なのだが、
しかし、その感覚は非常に爽快感に満ち溢れていて、日々の生活の澱のようなものを洗い流す。
おそらく精神的にそのような感覚を身につけている人間は、いつまでも若くあり続けるだろう。
どんなに金があったとしても、日々精神にたまる澱というのは洗い流せない。
ただ、思考がどこかにトリップするときのみ、
人間は人間の中に押し込められた精神を外部に開放することができる。


私の中で、その感覚というのは、まだ非常によわよわしい。
吹けば消えてしまいそうな、明日には忘れてしまいそうな感覚なのだが、しかしそれは非常に大切な感覚で、
なくしてしまうと日々生きることに対して、倦怠を覚えてしまう。
おそらく子供はこのような開放的な感覚の中に住んでいるし、そもそも私は子供だったはずである。
それがいつの間にか、世の中に侵されて、にっちもさっちも行かなくなった。
今私がその精神的感覚を取り戻すためには、多くの活動が必要である。
現時点での私の方法は、知識を広げることのような気がしてならない。
私は自分の殻を捨て、ここではないどこかへトリップするために、知識を広げるのだろう。


逆に、私が自分の殻に閉じこもって、心に倦怠を振りまくときには、
私の心は世の中への憎しみが醸造されて、どうしようもない閉鎖感に包まれる。
そうならないように、よくよく気をつけなければならない。


「賢い人間はどこが違うか」とかそういう最近の出版社お得意の俗っぽい雰囲気漂うフレーズは使いたくないが、
しかし、こういう小さな感覚に耳を澄ませて、快活に生きている人間というのは間違いなくいることだろう。


視野が狭くなった時の典型的な症状としては、
イジケだとか、自己嫌悪だとか、周囲の環境に対する不満だとか、
そういう形で現れるようである。


そういえば、人はイメージに随分左右されるようだ。
例えば地に根が張っているようなイメージを浮かべると、他人が持ち上げようとしても持ち上がらない。
一方で、ふわふわとした綿毛のようなイメージを浮かべると、簡単に持ち上がるようである。
いつもイメージは、自分の中を破って、空を飛んでいるような気持ちでいることができたら、
フットワーク軽く生きていけたりするのではないか。