試験など

統計力学の試験。
心の余裕がなかったので、数分のお勉強でやり過ごした。
提出物はすべて出しているので、なんとかなっているはずである。
せっかく授業は楽しかったのに、悲しいものである。


明日は本命の電磁気学。こいつを倒さなければ、話が進まない。
あとはレポートなど。
毎日つらい。


もし進級できたら、チータラ食べながらビール飲んで、映画みたいなぁ。
映画館でね。




(追記)
ニコ生をふと見たら、芸術家の方が何やら話していた。
この間の朝生に出ていた東氏も出ていた。


「芸術や言葉というのは強者が発信が弱者が受信する」という。
その通りだと思う。大学に私はいるが、基本的には精神力というのが強くなければ上手くいかない。
大学というのは、基本的には情報の発信者を育てることが第一にあるわけで、
それが形骸化しようと何しようと、今いる大学の学科の私にとってのキツさのようなものは、私が発信者たろうと
していないことからくるのではないかと思う。
駄文はいくらでも書ける。誰でも書ける。辛抱を要さない。
けれど痛みを伴わなければ書けないものもある。


私は本質的に受信者なのである。発信者ではない。
発信者は受信者よりもはるかに多くの「痛み」を引き受けて、漸く発信できる。
弱者を救うもの、弱者を助けるもの、いろいろなものを発信する。
東氏は言葉もそうであるという。思想などというものは、「強い人」には必要ない。
弱い人がその受け手なのである。


私は弱い。発信する気力もないほどの人間である。
今の大学でも一応自分なりにやってはいるが、私は発信者として生きて行こうとする「覚悟」というものがない。
すなわち「痛み」というのを引き受けようとする意志がない。
精神的にへばりながら、「痛み」というのを引き受けない限りにおいて物事に対応している。
とにかく「自分が頑張れる範囲」に対して・・・。


本当は、その「痛み」を引き受けて、発信者たろうとすべきなのである。
大学でも確かに発信者はとても少ないけど、少なくとも多くの「痛み」というのを引き受けている。
私にはその覚悟がない・・・。


メールで、芸術家の方に質問が来ていた。
「ニコ生を見ているただの凡人ですが、なにか社会的にコミットできますか」というような質問。
村上氏は「そういう偉そうな言葉づかいが嫌だし、ただの凡人が何かできるわけないだろ、何もできない」という。
そのとおりだな。そもそもニコ生をぷらぷらと見ている人間が何かなせるわけではない。
思想について書いた本を読む人間は、雑学的な知識が増えるだけで、別に何か新たに生み出すわけでもない。
情報の発信者になろうと「痛み」というものを引き受けた人間のみにそういうことができて、
ただただ家で座ってニコ生を見ている人間に何かできるわけではない。


そもそもそういう「痛み」を引き受ける覚悟もない人間が、大学に来てはいけなかったのだろうと思う。
もちろん要領なんかでパスすることもできるけど、要するにそういうことだ。
・・・いま、私は人生のとてもとても低いところにいるような気がする。
そしてそれは転機でもある。もうひと踏ん張りもふた踏ん張りもしようではないか。
「痛み」を受け入れよう。予想される「痛み」を想像すると、萎えてしまうのだが、それができないとどうしようもない。