とは言ったものの

昨日は愚痴ばかり書いてしまったものの、学校へ行くと一人で家にいて悶々としているより
はるかに良い緊張感の中で、私の脳髄も多少たりとも動くものである。
多分こういうことだ、「ほぼ日刊イトイ新聞」糸井氏の今日のブログから抜粋。


 池谷裕二さんに見せてもらった、
 脳の神経細胞が、でたらめのように手を伸ばしながら、
 互いを見つけあってつながるようすを、
 よく想い出したりします。

 
 動くと、出合う。
  犬も歩くと、棒がやってきて
 「やぁ、当たりたまえ」と言う。 
 案じている間に、産まれてる。

 
 休みもいいけど、仕事があって、
 あれこれ相談しあったり、人に会ったり、
 ひょいとなにかを思いついたりするのって、
 ほんとうにおもしろいものだぁ。


脳の神経細胞は、他の神経細胞に無数のシナプスを伸ばすのだが、我々人間もそうでないとは限らない。
孤立した神経細胞など何の役にも立たない。入出力機構から取り残された脳細胞は何時の間にか死んでしまうだろう。
孤立化して、日々悶々と過ごすより、昨日のほうがはるかに良かったと思う。
最近電磁気学の講義を受けて思ったのは、最初は講義を聞いても確かに分かりづらい。
ただ、あの教官は最終的に分かるようにあらかじめデザインしていたのがわかる。
何時も、あの授業だけは、本当に意味不明で、どう接していいか分からなくなって授業に出なくなった。


あの教授のやり方は、その場で理解できないと駄目だというタイプの人間は苦手だろうけど、
講義の終盤になって、これまでハイペースで講義をしてきた内容を理解させるための演習問題に時間を費やし、
演習問題の時間を多く取ることによって、理解度を最終的に上げていくようなやり方で、
その講義の全体像のデザインを知っていないと、授業に来なくなってしまう人間は多いと思うのだが、
とはいっても信じてついていけば、電磁気学にとって重要なエッセンスを学ぶことはできるし、
次になにか電磁気学の書籍を読むときは、講義を受ける前よりはるかによく内容を理解できるようになっていると思う。


昨日か、一昨日であるが、このことを学校から歩いて帰りながら考えたのだけど、要するにそういうことだ。
人とかかわるということは、一時は自分の思い通りにはならないことを求められたりするのだが、
私の理解を超えたところで、講義がデザインされていて、私の知らないやり方で理解度を上げる工夫が施されている。
この講義の場合、自分の狭い視野の範囲でしか物事を見ていない人間は、「分かりにくい授業」というとは思うけど、
でも最終的に自分の状態を見てみれば、やはりそれなりに練られた講義なのだと分かる。


もちろん、ひたすら分からない講義もあるし、一体何なのかと思う講義もあるけど、
一方で私が分からない授業の中で、知らないうちに頭の中を整理してくれる講義もある。
信じて講義に出席するかしないかで、随分と違う結果になる。


とりあえずは、それに取り組んでみて、自分がどう変化するのか、それを考えるのもよいことである。
「とりあえずやってみよう」という言葉を私は理解していなかったようである。
すべては自分が理解できる範囲で、知識の理解という運動が進むことを好むのだが、
そうはいっても一方で私が理解できない範囲で、ハイスピードに知識が得られるということもこの世には存在している。
自分が理解する方法(自分に合う講義を聞き、自分に合う書籍を読む)だけでなくて、他にも理解の方法はある。
そのことをずっと拒んできたから、今のような状態に陥っているわけである。
呪うべきは、自分のもつ理解のモデルが最良だと、勝手に決め込んでいたこと。
それがすべての不幸を呼びこんできているのだが、もっとこれを抽象的にいえば、
「私は脳細胞のように他者と連結することを忘れた、孤独な脳細胞だ」ということになるかと思う。


文章の中にある「休みもいいけど、仕事があって、あれこれ相談し合ったり、人に会ったり」というのは、
人間が生きる上でとても大切なことである。
なぜ私が自分の納得できるように上手い具合に物事が進まないかといえば、「相談したり、人にあったり」という部分が、
著しく欠落しているからだと思われる。
実験レポートなんかも人からアドバイスもらいながら取り組んだら実は楽しいのに、私はずっとそれをしていない。
だからやる気も出ないし、楽しいとも思わない。
決定的な部分が欠落しているように思うのだが、それを何とかしなければ。


自分の考える範囲の中に閉じこもって、未知のものを見ようとしない人間は、退屈な人生を送るし損をする。
昨年も書いているけど、なるべく他の人間とコミュニケーションするようにしたりして、打開しないとなぁ。
どの人間もすべて嫌いという状態から、一気にコミュニケーションを志向するような状態に飛び移らなければならないわけで、
それを考えると、今までの私の苦悩、恨み、敵対心というのが、それをさせないように動くのだが、
なぜかそういう感情を一方で持ちながらも、心を開いて、他者と交信するという必要性になぜか迫られている。
一体どういう魂胆でこんなアンビバレンツな状況に神様は私を置くのか、さっぱりわからないのであるが、
なぜだかそういう風に仕向けられている。
どういうつもりだと胸倉をつかんで問いただしたいのだが、彼には私の理解を超える範疇で考えというのがあるのだろう。
なんと弱く矮小な自分。


私は自分が考える私の言うことを聞くのではなく、その私以外の何か高所にいる人間に導かれなければならない。
その機会をずっと喪失し続けているのだが、それは私の心の準備ができていないからだろう。
だから行き止まりでずっとうろうろしているやるせない感覚に陥っている。


マクスウェル方程式
電場に関するガウスの法則(微分形)

 div \mathbf{D}=\rho


電場に関するガウスの法則(積分形)

 \int_{s} \mathbf{D} \cdot d \mathbf{S} = \int_{v} \rho dv


磁場に関するガウスの法則(微分形)

 div \mathbf{B}=0


磁場に関するガウスの法則(積分形)

 \int_{s} \mathbf{B} \cdot d \mathbf{S} =0


アンペアの法則(微分形)

 rot \mathbf{H}= \mathbf{J} + \frac{ \partial \mathbf{D}}{ \partial t}


アンペアの法則(積分形)

 \oint_{c} \mathbf{H} \cdot d \mathbf{l} = \int_{s} \left(\mathbf{J} + \frac{\partial \mathbf{D}}{\partial t} \right) \cdot d \mathbf{S}


ファラデーの法則(微分形)

 rot \mathbf{E} = - \frac{\partial \mathbf{B}}{\partial t}


ファラデーの法則(積分形)

 \oint_{c} \mathbf{E} \cdot d \mathbf{l} = \int_{s} \left(- \frac{\partial \mathbf{B}}{\partial t} \right) \cdot d \mathbf{S}


電磁波の波動方程式を導出するときには、アンペアの法則とファラデーの法則の微分形を使う。
アンペアの法則では\frac {\partial \mathbf{D}}{\partial t}は変位電流を表すが、変位電流が生じないという前提条件で
簡単な電磁波の波動方程式は導出される。前提条件を極めて単純にしたもののみ講義では扱う。
それぞれの方程式の意味を思い浮かべながら、頭に入れないとなぁ。
電場に関するガウスの法則では\rhoを用いているけど、簡単な問題を解くときは電荷Qなどを使う。
 Q = \int_{v} \rho dv
として電荷密度\rho積分でかき集めて、Qとするわけで、あとは電束密度Dで書いていたり、
(電場で書くほうが見慣れた形であるが)
普段使うものより抽象度の高い書き方である。


とはいっても、今回の試験で実際に使うのは、アンペアの法則とファラデーの法則が主であり、
電場と磁場のガウスの法則はあまり使わないのではないかと思う。
しかしすべて覚えていないと駄目。


数式を交えながら書くことができるので、はてなブログはやはり使いやすい。
内容の幅が広がるわけであるが、私は肝心の内容が伴わないから少し残念。