祭りなど

先週の土曜日は、お祭りに行った。
この時期特有の「ほたる祭り」というやつであるが、とても雰囲気が良かった。
田舎のお祭りであるが、今住んでいるとても自然豊かな土地の祭りは、
なんだかとても懐かしく感じるし、季節感も十分に感じることができる。


私などは中途半端な都会で育ったので、自然を敬うようなテーマで行われる祭りというのは知らない。
海の近くにも、山の近くにも、いままで住んだことがなかった。
この地方の人は、自然とコミットして生きているように思う。
だからなんだかとても幸せそうである。


アニメの「ひぐらしなく頃に」は、そのホラー性で人気が上がったのかもしれないが、
しかし、「雛見沢」という田舎の雰囲気も人気になった一つの理由だろう。
なんだかあの懐かしい感じ、田舎の感じ、地方のお祭りの感じ。


参加している人々は、都会のように洗練された格好はしていない。
若い女は、テレビに影響され過ぎていて、皆同じようなギャルメイクだし、男は悪ぶっている。
頭が良さそうか、悪そうか、と言われれば間違いなく悪そうなのであるが、
でも土地と密着しているような、「強さ」のようなものがある。


花火も綺麗だったし、屋台で食べたものもおいしかったし、蛍も綺麗だったし、いうことはない。



それで、今日は学校の図書館に行って、またお勉強。
とはいっても通俗物理本を読んで、フーリエ解析の問題を数問解いただけである。
しかし、今読んでいる通俗物理本は結構面白い。


量子力学は、最初はプランクが黒体放射の現象を説明するのに、エネルギーの量子化ということを考えたり、
キュリー夫人が、放射性元素を調べてみたりと、そういう時代から始まる。
キュリー夫人は、理論屋ではなくて実験屋であり、後に出てくる理論屋の人よりははるかに泥臭い仕事をしている。
例えば放射性元素を含む鉱物を煮詰めて、濃縮するというようなことをやっていたようである。
そこからボーアや、ゾンマーフェルトの時代になる。


ボーアは、当時ではカリスマのようで、その一言一言が暗示的だったようである。
しかし、数学の力があまり芳しくなかったようで、彼の定性的な仮説を、定量的な仮説にするために、
助手が必要であったようである。
理論屋は理論屋でも、こういう理論屋もいるようである。
ボーアは原子について、どちらかというと哲学的なアプローチを好んだようである。


後に、ゾンマーフェルトの下に、ハイゼンベルグ、パウリといった有望な若手が出現する。
ボーアやゾンマーフェルトの時代から、彼らの時代に移るわけである。
パウリは普通に私たちが想像するような理論屋なのではないかと思う。
彼は20歳にも満たないで、すでに物理学者として成熟していたようである。
一方でハイゼンベルグは、パウリよりは成熟が遅かったが、頭の回転の速さによって、
行列力学を生み出したと言われている。


また、ディラックも同時代に生まれていて、彼はハイゼンベルグやボーアが、哲学的な意味を求めるのに
夢中だったのに比べて、方程式を導き出すことに強く惹かれていて、
あとはお好きなままにというタイプだったようである。


いまでは天才としか言い伝えられていない量子力学を作った巨人たちではあるのだが、
彼らにも個性があって、得意なことと不得意なことがやはりあったようである。


そして世界に不確定性がもたらされた―ハイゼンベルクの物理学革命

そして世界に不確定性がもたらされた―ハイゼンベルクの物理学革命



あとは将棋24は、一日数局やっているが、900位までレートは上昇したのにも関わらず、
今は700代を保つので精一杯である。
正直何がおかしくなったのか良くわからないし、勝てなくなった理由が良くわからない。
棋譜並べなどをしたほうがよろしいのかしら。



本当に分からないことだらけである。
ブログを書いていても、文章を思いつかなくなったり、文章が頭から出てくるスピードというのが、
どうにも遅くなってきたり、頭の具合があまりよくないような気がする。
少し前まではブログで文章を書くにも、すらすらと出てきて、指でタイプしているというような状況だったが、
今はすらすらとは出てこないで、ビートもろくにない文章にしかならない。
前に書いていた文章にビートがあったかと言われれば、私にとってはあったのである。
どうにもおかしい・・・。
お酒を飲んでいるからかもしれない。