浜辺を歩いた

今週はいろいろあったので、気持ちの整理のためにも昼から自転車で遠出。
躁状態であるのは間違いないが、それは周囲の状況の変化に対する至極健全な精神的応答であろう。
といってもいつものコースで、海辺の隣町まで自転車で行って、讃岐うどんを食し、
それからファミレスへ行って、ドリンクバーとパフェを食べながら本を読んだ。
あとは煙草をすぱすぱ。
湯川氏と梅棹氏の対談の本であるが、これを読み終えた。
思えば随分時間がかかった。ただの新書なのにも関わらず、読むのに時間がかかってしまった。
なかなか落ち着いて読むという気持ちになれなかったのかもしれない。


湯川氏の、物理理論の中に虚数を使うことについての意見はとても良かった。
私が習っている電気工学でも、電磁気学でもそうである。
学科に入った最初の頃には、なぜ虚数というのを使うのか、とても疑問に思った。
ついぞ、分からなかったのであるが、たとえば量子力学にも虚数の確率というのが出てくるが、
あれが生理的に受け付けない人は多いことだろう。私もそうである。


湯川氏がいうのは、おそらくこういうことである。素人の要約だから信頼性はない。
理論の整合性を保つために複素数を入れ込むわけだけど、それを入れ込むことで、
たとえば電子の挙動というのを確率的に予測する結果がえられるわけだけど、
その理論的過程において、複素数を使うと、とても綺麗に理論を整理できる。
しかしながら一方で、アインシュタインシュレーディンガーなどの物理学者は、
こういう人間が恣意的に理論的な過程に、人工的な数学をねじ込むのはおかしいじゃないか、
というようなことを言ったらしく、湯川氏も「最近の物理学は数学に振り回されている」と
この本の中で言っていた。


たとえば電気工学でも、複素数を用いなければならないけど、これも理論的に整理できるという
複素数の「利便性」を利用しているわけで、あの有名なオイラーの公式は非常に使い勝手がよい。
別に、複素数を用いなくて、別の方法でも理論的記述はおそらく電気工学も可能であるが、
煩雑な理論になるので、そういうことをしないのである。(多分)


ファミレスに随分居座り、18時過ぎにファミレスを出て、浜辺に向かった。
久しぶりに広い浜辺をゆたゆたと歩いた。
波の音が心地よいし、季節も良いから散歩にはもってこいである。
浜辺から岩場まで行き、岩場の生物を見て楽しんだ。
岩場で若布を見つけた。それも立派なものだった。
ビニィル袋があれば、それに入れてもって帰りたかったがあいにくそれがなかった。
この若布と豆腐で味噌汁をしたら、これ以上おいしいものはないだろう。
残念ながら袋がないので、この生若布を諦めた。
「亀の爪」なんかもたくさんあって、良い味噌汁が作れそうであった。
今度、袋を持ってとりに行くか。


今は関東へいってしまった友人から譲ってもらった、赤い折りたたみ自転車をこぎながら、
去っていった友人たちは、今頃楽しく過ごしているだろうか、などと思った。
研究室の同期に、とても仲のよかった友人と趣味や雰囲気が似ている同期がいて、
もしかしたら去っていった友人のように仲良くできるかもしれない、とも最近思う。


しかし、こんな片田舎で、何年も何年も過ごしている自分って何なのだろう。
別に海辺の町は嫌いではないのだけど。


明日から授業、研究室生活が本当に始まる。
なんとか適応しないと。今学期も授業にはすべて出席、というのをまず第一に考える。