苦しみ、聖なる真理

「ただそうやって苦しみに突き動かされて、苦しみを燃料にして、何かをぶつけたところで
なかなか物事というのは上手くいかないようにできていて、
苦しみに突き動かされて努力しても、さっき申したようににそもそも蓄積するんですよ。
蓄積したうえに、それで上手くたまたまいって、心地よさが得られてもその心地よさは瞬時に遁減していって・・・」


苦しみは持続し、心地よさは遁減していく。
極みの境地は「平常心」か。


一昨日から、「家出空間」より説法をダウンロードして聴いている。
主に精神についての話で、私は大学一年生の頃は、思春期の終盤に入り嵐の中にいるような精神状態だったので、
精神に関する本をいくつか読んでいたように思うが(たいていが下品な本だったと思う)
最近は、自分自身の精神について誰かのアドバイスをもとに考える、ということを全くしてきていなかったので、
一昔前なら「説教=嫌なこと」という単純な脳内方程式が起動してそんなものを聞かなかったであろうが、
若いころよりもはるかにつらい経験もしたし、おまけに未来まで見えない状態なので、
こういう説法があればダウンロードして律儀に聴くのである。


歳をとると、精神に関して誰かの考えをもとに、自分の中で再度整理するということが必要なのであろう。
子供が教会に駆け込み、神父に相談する、というような場面はあまり想像できないが、
20代中盤ともなれば、教会や宗教、あるいはカウンセラー、精神科医の手を借りて自分の精神について取り組む、
という時間が必要になってくるのではないかと思う。
そうでないと、なんだかやっていけないような気持ちになってくるし、一方で自分自身で精神系の本を読んで、
その中から一日一回、自分自身に役立つものを選び取る、というような自発性を持ちながら、
さらに自分に与えられた社会的役割を果たしていくとなると、相当の精神力が必要となるので、
そこはその分野のプロとして生きている人間の意見を参考にするのが、一番楽なのだと思う。


そうはいっても、寺や教会に行くことも昔考えていはいたが、そういうことも億劫な人間のために、
「家出空間」では説法がダウンロードできるようになっていて、部屋を暗くしてパソコンから程度のよいスピーカーで
説法を出力すれば、それなりの雰囲気も味わえるし、一日に一回自分自身の精神を省みるという良い機会になる。


ということで、今日は釈迦が「人生とは苦しみである」というお話であった。
快楽主義者が聴けば、間違いなく反論するだろうし、私としても「人生が苦しみなら生きる価値があるのか」とも思えてしまう。
あるいは、「人生とは苦しみである」という「聖なる真理」を信仰する人間というのは、
実は社会的にあまり恵まれた状況にある人間ではなく、恵まれた人間はそれを信仰しないで快楽主義者となり、
一方で人生それ自体が苦しみであるというようなドグマを信じる人間は、資本主義社会の中では、
驢馬か牛のように快楽主義者の肩代わりをして苦しみ漬にされるのではないか、というようなことまで考えてしまう。
ただ釈迦がこの「人生とは苦しみである」といった時点では、別にグローバル化の時代でもなかったし、
さらには資本主義社会というのも、貨幣経済というのもなかったのではないかと思う。


とにもかくにも「人生とは苦しみ」であるらしい。
人はその「苦しみ」を原動力として何かをするらしい。
たとえば、自分自身の能力というのは、この大学にはとどまらない、他大学の大学院に進学して、
さらには大企業に就職して、平穏で金銭的にも全く不足のない人生を送るのである!というような
考えというのは、「苦しみに突き動かされている」というのである。


まったくもってその通りで、私も一時期考えていたことだが、その動機というのは自分自身をもっと大きく見せたいという
虚栄心、野心といったもの、それ自体は人の精神を苛むタイプの感情、つまり「苦しみ」である。
そして彼は「苦しみ」というのを原動力にして、他の大学院に行き、そこではまた研究室の人間関係に悩み、
または自分よりも優秀な人間がいて、このままでは一生の恥であるといってまた「苦しみ」を原動力として
秀才の学生にキャッチアップする。
現代資本主義社会では、このような「不屈の精神」を持った人間が理想とされるし、
また「苦しみを原動力にしている行為というのははたして如何なものか」という提言など先ずされない。
そもそもコンビニのアルバイトだって、長時間拘束される「苦しみ」を貨幣に換えるという仕組みであって、
仏教の世界で言われた「苦しみを原動力にする行為というのは、あまりよい種類のものではない」という提言と、
現在の資本主義社会の中で実際に人間がやっていることというのは、とてもじゃないが相入れないのは当然ではあるが、
そうはいっても、人間というのは生きていれば精神を皆持っているわけで、どんな状況にあろうとも、
精神的な神殿、あるいは精神的なケアというのは必要で、そのためには何かドグマのようなものを、
あるいは精神の側から見た物事の見方というのを、一通り習得して自分を見失わないようにしなければならない。


それで、苦しみについて私も考えてみることにした次第である。


「人生とは苦しみ」ということを、私もあまり人生について考えたことはそれほどないので、とりあえずは受け入れよう。
そしてこれまでの自分の人生を振り返る。
確かに「苦しみ」から逃れるために、過去にも異常なまでの努力をしたことがある。
「自分が無能だ」というところから逃れるために、あるいは他者からの尊敬というのを得たいがために、
他人が驚くほどの努力というのをしたことがある。
私の原動力は、「興味」一割、「苦しみから逃れたいという気持ち」九割といったところだったであろう。
私はその中で一生懸命努力した、一番褒めてほしかった女の子に「すごい」と言われて私は舞い上がった。
しかし、その喜びというのは一瞬である。
一方で、私を苛み続けた「苦しみ」というものからは解放されないで、苦しみは私の中に蓄積された・・・。
自分の中を振り返って本当に蓄積されたのか、考えてみる。
いや、解放されたものも確かにあった。しかし、「苦しみ」はやはり蓄積したかもしれない。


「苦しみは長くとどまり、一方で喜びというのは急激に遁減していくものである」
と、小池氏はいう。
そうかなぁ。そうかもしれない、という気分にはなる。
確かに「喜び」というのは長く続かない。「苦しみ」は何時もそこにあり私を苛み続ける。


だったら、「人生とは苦しみ」ということを受け入れて、「苦しみ」を味わう時、「喜び」を味わう時、
それぞれについて態度を決めましょうということを言われている。
「喜び」なんて一時的なもので、つまりは長く続かないものだから、それに同化してはしゃぎまわると後でつらくなる。
(苦しみとのギャップにつらくなる)
ただ、「苦しみ」とは長いおつきあいになるので、しなければならないことを避けて、
それよりも大きな「苦しみ」が「苦しみ」を避けたり、あるいはそれを原動力にして強張って動いた結果、
それを手のつけられない「苦しみ」に増幅されるなら、それを適切に処理しよう。


その時に、瞑想などして、自分自身の「苦しみ」というのをつぶさに見つめづづけることが大切のようである。
「苦しみ」というものの性質については前述したとおりだから、それを参考に自分の「苦しみ」というのを
見つめて自分なりに考えてみなさい、というようなお話であった。
自分の苦しみを見つめ、快楽についてもそれに同化しすぎないことである。
それが「大人」ということなのかもなぁ。
それで、仏教の世界では「人生とは苦しみ」であるのだから、
「苦しみ」にも「喜び」にも動じない、「平常心」というのが精神の極みになるわけである。

理屈は確かにそうだが・・・。



後はうってかわって、「苦しみ」から現実逃避するために立花氏の「臨死体験」を100ページほど読んだ。
たいていは臨死体験の羅列で、立花氏は臨死体験を「分析」するといっているが、
はたして「分析」などできるものだろうかと考えながら読んでいたが、さすがに100ページ読んだ範囲では
「切れの良い分析」というのは全くなく、臨死体験という説明しようのないものの前に
ただただ臨死体験の羅列をしていくしかないような状態が続いている。


臨死体験 上 (文春文庫)

臨死体験 上 (文春文庫)


でも音声を聞くのは良い。授業でもなんでも音声による情報の伝達というのは、効率が良い。
難解なものでも音声を介すると心の中に入ってきたりしやすい。
自己啓発系の説法本を読んでもあまり心の中に残らないのは、それが音声でなく、文字情報にされたものだから、
ということは確実に言えることだろう。
不思議なものだ・・・。