実験、説法「息の域」


今日も実験。先週よりはましな人々と実験。
ぼちぼちコミュニケーションをとりあい、快く別れたか。
実験の教官が私にいろいろ話しかけてきた。
あの実験来ていないやないか、と言われたので、変更があった旨を伝えた。
この教官が私はどうにも苦手である。
その後、ある教官が今日中にレポート出さなければ単位を出さない、というようなことを言っていた。
とはいっても出せる状況ではなく、ぼちぼち出そうと思い家に帰った。


家では、軽く昨日から使用は要注意だと思われるネットをしてごろごろしていたが、
どうにも精神状態が悪くなるので、真っ暗にして瞑想をすることにした。
昨日も、就寝前に瞑想をして床に就いたのでぐっすりであった。
瞑想は快眠を招く。


瞑想に関連して、「家出空間」でダウンロードした「息の域」という説法を聞いた。
昨日の小池氏がやっている説法である。
説法などこの間京都に行った折に、苔寺で短い説法を受けたくらいで、日常的には全く体験しないものであるが、
聴いてみればよいものである。心が落ち着く。


息は中国では四つに分類される。
「風」「喘」「気」「息」の四つである。


「風」というのは、普段瞑想なども行わない人が無意識的にしているタイプの息。
これはあまり良い種類の息ではない。
ふと魔がさしたり、不安というのを抱いたり、というのもこの状態の息のときである。


「喘」というのは、私も昨日瞑想に取り組んだ時に、体験したタイプの息で、
素人が瞑想しようとすると、酸素ボンベでもつけたような「スーハースーハー」と音のする息になる。
昨日はにわかの知識で腹式呼吸をしながら瞑想に取り組んだのであるが、
この「喘」という状態になった。
これは非常に心地よいのだが、古来中国の呼吸分類によれば、まだ「喘いでいる」という状態である。
まだまだ苦しい、救いの必要な状態なのである。


その次が、「気」という状態。「喘」の状態の音が消えた状態。
そして「息」は、「気」よりもさらにレベルが高くなり集中した状態。
この最終形態で漸く日常で使われている言葉である「息」になるわけだが、
それは仏教の文脈においてでの話であり、日常的には℃の人間がしている呼吸も「息」である。


それで、自分が日々不安を覚えたり、怒りを覚えたり、失望を覚えたりした時の息の状態を振り返って見たまえ、
というお話である。
そこにはまったく不安定な息が存在し、言ってみれば、悪い息をしている状態の上にさらに悪いことが起こるわけで、
安定感のない人間は、どんどん悪くなっていく。
つまり私のことである。


説法は、更新されたアップされていくようだから、たびたびダウンロードして自分を見つめる機会にしようと思っている。
音声による情報というのは、異様である。
読むというときは、読むことに夢中である。ふと自分のことを考えるということも、音声と比較すると少ない。
しかし、説法の音声というのは頭の中に直接訴えかけられ、すぅっと理解できる。
だから瞑想関連の本を読むのもよいが、このように説法がダウンロードできる不思議な時代なので、
部屋の電気をすべて消して、床に座り、説法を聞くのである。
だらだらタバコを吸って、ネットをしているよりもはるかに良い精神状態に近付いているというのがよくわかる。
習慣化していこう、でないと今学期は生き残れない。