ベクトルポテンシャルというのは実在するの?就活情報など


今日も授業が三コマほどあったので学校へ。
複素関数の授業はいつも通り。
統計力学の授業は、「等重率の原理」というのを学んだ。
微視状態の数というのは、系の粒子数が増えれば増えるほど、エネルギー値が増えれば増えるほど
多くなっていくわけであるが、
たとえば80℃のお湯がマグカップの中に入っていて、私の下宿で沸騰するという「微視状態」というのも
考えられうるわけであるが、微視状態の数としては沸騰する状態の数よりも、
沸騰しない微視状態の数のほうが天文学的に多いために、


(沸騰する微視状態の数)/(系がとりうる微視状態の数)≒ほぼ0%


であるために(可能性としては存在しているのだが)、数の暴力によってそれは起こらない。


これを熱力学では、不可逆過程といって、それは統計力学による微視状態の数を用いたこの考え方により
成立している過程があるが、これを保証しているのが統計力学といったところか。
あるいは数の暴力がそれを保証している。


しかし、統計力学の授業で教わったこの考え方ってなんだか不吉なものに感じた。
「数の暴力」によって奇跡というのは起こらないのである。
人間社会は多くの人間からなる多粒子系である。
さて大学生がみな就職活動をしたとしましょう。
中にはひねくれた奴もいてそれをしない人間もいる。
ただ採用支援の会社がこの時期必死になって「夢の実現、積極的な就職活動」ということを大学に来て絶叫するため
(Mナビ、Rナビ)、
そういう学生は少数派になってしまう。


(就職活動に冷めている大学生)/(大学生全体)≒ほぼ0%


になるように(そういうひねくれた人間が生きづらくなるように)、社会という系は「数の暴力」で
そういう状況を作ろうとしているわけである。
・・・いや本当はもっと不吉なことを感じたのだが、それは私の言語力では活字にできないで、
このようなひねりのない糞たれの文章になってしまった。


とにかく、人間社会というのは多数派というのをブームによって作り、そこからこぼれおちた人間には
「数の暴力」によって結構な冷遇を浴びせるシステムなのである。
まるでその人たちが存在しないかの如く。




そんなこんなで、別にそんなひねくれた話はどうでもよいのだが、
それから「日経サイエンス」に多少目を通してベクトルポテンシャルの話へ。
ベクトルポテンシャル電磁気学で、磁場や電場の「源」のように数式で描かれているが、
これが実は「実在」しているのではないか、というのが結構古い電磁気学のころの人々の考え方だったそうである。
電磁気学はマクスウェルがあの美しい形の方程式系を導いたのだが(あの美しい形に整理したのはヘルツだそうだが)
その時「ベクトルポテンシャル」というのは、数学的な形式による物理的な実在性はない、
ようするに人間がものを考えるときに出た「思考の澱」のようなものだと思い込んで、それをメインには持ってこなかった。


しかし、電子が「磁場」も「電場」もないところで、なぜか動くということで、じつはこの「ベクトルポテンシャル」が
電子というpussyにいたずらしているのではないか、ということで
某大手企業の研究者がそれを確かめるために、超伝導体をどうにかこうにかして、
電場も磁場もないところに電子を置いて、「すんごい、めちゃくちゃすんごい顕微鏡」を使って
それを観察したのであるが、電子がなんと「反波長分動いてんじゃん」という現場を写真でフライデーしたために
ベクトルポテンシャル」って実在しているんじゃないの?ということになったらしいが、
それが一概に現場写真を抑えただけでは、電子さんは結構複雑な人らしいので、いろいろな解釈ができるらしく、
言い切れはしないが、「ベクトルポテンシャルは存在している」のも結構有力になっているらしい。
(ざっと私が理解した範囲なので、たぶん違っているかもしれないが)


実験物理の実例として紹介されていたが、砂川氏の電磁気学でやったベクトルポテンシャルって物理的実在だったのか。
砂川先生もそこまで言い切ってはいなかったので、すごいことなのだろう。
磁場と電場は物理的実在だそうであるが。
さて何を持って実在というのかは、おそらく「素朴実在論」という哲学用語でいい表わせるのだろう。





その後、就職活動の授業へ出席。
採用支援の会社から派遣されてきた講師の方がしゃべっていた。
なぜこうも「就職活動の匂い」がするしゃべり方をするのだろう。
みなこういうしゃべり方をするのである。
統計力学の教授(割かしというか私は好きなのだが)とは、全く違う話し方をする。
なぜこのようにエクリチュールが違うのか、なんてエクリチュールという言葉を使ってみる。


採用支援をするのは結構だし、それによって社会の血流というのが促進されるのも結構。
だけど、フットワークが軽くて、情報アンテナが活発な人間だけが生き残り、
地元でほんわかと地元貢献をしたいというような、あなたたちがいう「競争意識の低い人間」が
rejectされるような就職活動にしてしまうのはいかがなものかと思う。
「ビジネスに卑怯もくそもない」とおっしゃられていましたが、
明らかにビジネス社会に適応できる典型例というような学生が生き残り、そうでない学生はさようなら、
というような統計力学的圧力とでもいいましょうか、そういう雰囲気を自覚的なのかあるいは無自覚なのか
わからないが、醸成しようとするのはいかがなものかと私は思う。
生態系の多様性というのはメディアは保たなければならないと躍起になるが、
人間はビジネスシーンだからといって切り捨てて行ってよいかといえばそうではないと思う。


●ナビに登録してフットワークよく就職活動をするという「就職ゲーム」に強い人間だから、
ビジネスが上手くいく、ということもままあるかもしれないが、そのような「就職ゲーム」に
どうも胡散臭い匂いを嗅ぎつける学生もきっとたくさんいて、その「就職ゲーム」のなかで
まるで主人公のようにふるまう人間は、あなたたちの業界用語では「主体性のある」ということに言い換えることができる
かもしれないが、一方で「就職ゲーム」の中で「ヒーロー」「ヒロイン」を演じられるような面の皮の厚い人間は、
人間の中でもいくつかの微視状態でしかないということを分かってほしい。
本来的には人間って多粒子系よりももっと自由度が高いんじゃないかという幻想を言ってみる。


大学にやってくる講師というのは、「ギラギラ系の就職論」を唱えるひとは数多くいるのだが、
「燻し銀の就職論」を唱える人を目の前で見たことは正直ない。
そろそろそういう人間にも発言の場を与えてみてはいかがだろうかと思う。
私は権力のない学生なので、そのような講師を招く力もないのであるが、
本を書く人間にはそういう「燻し銀の就職論」を語る人間もいるし、ただそれが「ギラギラ系の就職論」よりも
いささか実践的でない、というのはその就職論自体の生い立ちだとか構造によるものを無視できないのであるが、
そういう点で「ギラギラ系の就職論」に押されているという趨勢というのは理解するが、
それでもそういう「ギラギラ系の就職論」が示す就職活動とは一線を画す就職論がいつの時代にか展開されることを望む。
きっとそういう時代も来るんじゃないかと思うけど。


理系の学生が、就職活動にいまいち興味を示さない、というようなデータを今日の講師の人は出していたけど、
科学はビジネスとは圧倒的に違う語り方をするものだと思う。
今日の講師の方はきっと文系の学科を卒業されたとは思うのだが、
たとえばあなた方のサイトを管理しているエンジニアの方の仕事を一日見学してみたらどうかと思う。
なにか分かることがあるのではないだろうか。
システムを実際に支えるエンジニアは地味な作業をしている一方で、講師は「ギラギラ系の就職論」を大学生に語り、
「夢」だとか「自分のしたいこと」だとか、そういう言葉を乱用する。
さて貴方がたが雇っている、あなた方の大切なサイトを支える情報通信のエンジニアって、
それをするのがはたして「夢」だったのだろうか自社の会社のエンジニアに聞いてみたらいかがだろう。
本当に理系で夢を追いかけたなら、ロケットを打ち上げたいだとか、新素材を開発したいだとか、
案外そういう突拍子もない意見が帰ってくるのではないか。
それとも自社のサイトはアウトソーシングでもしているのかしら。


「就職ゲーム」がくだらなく見える理系の学生は、結構多いのではないかと思う。
いつも文系の人間がするよりも地味な作業(実験だとか、数値の計算だとか)をたくさん体験しているからでも
あったりするのではないかと思うのだが。


さて今日はこれからDSPの文献を読む地味な作業に入ろうと思う。
実験の下準備だ。誰にもほめられることもないお仕事。