あちらの話

※すべて下ネタ、読んでいて不快だろうと思います。閲覧注意。


妄想の中では、自分を包みこんでくれるような聖母というのがこの世のどこかに存在していると昔は思っていた。
とくに20代の最初のあたりまではそう思っていた。
あの頃は私は面食いで(今もそうかもしれない)、さらに経験もなかったので、
目力のある美女に「心の底から」惚れていた。
クラスで一番モテるタイプの女性で手も足も出なかった。
(本当に「心の底から」なのかはわからない。欲求が今までの中で一番強いという感じ)


私は美女との行為には、生まれて今まで縁がない。ごくごく普通かそれ以下の女性としか縁がない。
普通の女性との行為というのは、私の聖母願望というのをことごとく打ち砕いた。
局部をなめろと言われてなめるのだが、なんだか少しおなかの痛くなりそうな匂いがしているし、
(ネットでは漁港などと言われているが、経験不足のためそこまでひどいのには出会ったことがない)
舐めていると顔全体が局部に埋まって、息ができないから苦しい。
よほど心の底から惚れた(20代前半に夢中になったような)女性でないと、あまり舐めたくないというのが本当のところで、
しかし仮に人生で一番強く欲望したその女に対して、クンニリングスをして匂いというのが漁港のようなものであったら、
100年の恋というのも冷めるのではないかと思う。


それに行為中の不満を書けば、まず乳首だの局部だの舐めていたらそのうち喉がからからになってくる。
乳首にも舐め方の注文が個人によって違いすぎて、訳が分からない。
強く弱く、その間といわれるのだから、どうしようもない。私にはマジックタッチのようなものは備わっていない。
それから自分の唾の匂いも嫌である。
どれだけ頑張って局部を舐めようが、濡れない女性は濡れない。
深くまで舐めていると、髭が当たって痛いと言われる。
はてどうしたものかとネットで検索するのだが、雰囲気作りだとかなんだとか。
(愛の言葉が足りないというが、経験不足のため欲情と工夫をしようとする理性が同居しないのである)
神経質な女性というのは濡れにくいような気がするし、一方でだれとでも寝てしまう阿婆擦れはクンニもなにも
していないのに勝手に濡れている。
性格を如実に反映するのが、濡れる濡れないだとは思うのだが、はたしてどうなのか。
(20代周辺の若い女の子は濡れにくいと個人的な仮説を立てている、経験不足により実験的な実証はない)


よく小説に出てくる(例えば村上春樹が書くような)「深い性交」というのを私はしたことがない。
もちろん私のほうにも明らかに問題がある。遅濡であるし、さらには多少インポテンツも入っている。
(このインポテンツは肉体的な原因ではなくて、精神的な原因によるものである)
お互い立たない、濡れないであると、空気がどんどん重たくなっていく。
無言のうちにも、実は身体の相性だけでなくて、精神的な相性まで悪いのだと、お互い気づくのである。
相性が良ければ、お互いの準備が速やかに行われるのかどうか、私は一度も相性の良い人とあったことがないため分からない。
ただ、今までで一番強い欲情を覚えたあの女性はどうだろうと、思ってしまうのである。
彼女が濡れるのか濡れないのかは分からない。濡れなくて私が憂鬱になっていくような想像をするほうがたやすい。
けれど、私のほうは、それなりに自然な準備が仕上がるのではないかと思うのである。


なぜこのようなことを書いたかといえば、最近かつての女性が私の家を訪れたからである。
そこで再チャレンジしたのだが、結局私が射精に至って終わりである。
(彼女が濡れないので挿入はない)
女性のほうは私の愛撫の下手さに辟易しているのが、手に取るように分かったし、
(だって繊細な口のコントロールを要求されて、普段そんなに気を使って動かしていない部分を動かすのは難しいのである)
もちろん喘ぐ声というのもあまり聞こえない。
「濡れない」というのは、男性として否定されているように思えて、私は一層げんなりしてしまう。
男はAVと自分のセックスの経験しかないので、どうしてもAVと比較するわけであるが、あれは演技だとして、
しかし、私のアパートの隣の部屋から聞こえてくる、カップルの女性のほうの喘ぎ声と比較すると、
どう考えても私がセックス下手としか思えない。
昔、北京に旅行で泊まった時、白人のカップルが三部屋くらいをまたいで聞こえてくるくらいの喘ぎ声というのを発していたが、
あれは人種の違いとして従えてよい事例だと思われるが、それにしても自分の行為を振り返るにつれ、下手糞だと思う。
そもそも喘ぎ声=快感でとらえている時点で、勘違いしているのかもしれないが。


それで今日は、セックスについてだとか恋愛についてだとかを真面目に書いているブログを探した。
一応トラックバックを飛ばしておく。
(申し訳ありません、気持ち悪いブログから飛ばして。でも勝手に引用は良くないと思ったので)


http://d.hatena.ne.jp/victoria007/20120102/1325499477


「婚活」というのは結婚情報産業が作り上げた「赤い糸で結ばれた宿命の配偶者が世界のどこかにたった一人いてその人に出会わなければ私は幸せになれない幻想」にもとづく一大ビジネスで、いつまでも顧客でいてもらうためにはそんな運命の人に出会わないほうがいいわけだから絶対にうまくいかないように設計されている。


という内田氏の最新刊「呪いの時代」から文章を抜粋している。
それから以下は、トラックバック先のvictoria007氏の文章を抜粋。


さっさと「運命の人」をみつけて幸せになった人、
いつまでも「自分探し」&「婚活」をしてる人を見てみると、
違いは、出会いの多さとか、その人自身のスペックの多さなんかじゃなく、


人生、こんなもんだろ


っていう悟りがあるかどうかだと思う。


異性に対する、経験不足の人間特有の幻想を取っ払って、現実を受け入れろという話。
これは今の私の社会的な状況にも言えることだし、異性関係に対しても言えることである。


それでセックスに話を戻せば、25歳にしては経験不足の私はまだ性的幻想というのを取り払えていないのである。
それもそのはず、私は理系で異性と出会う機会もないし(部活はもうやめてしまったし)、
さらにはなかなかモテないので、現実を知るほどの機会がない。生半可に知るだけである。
婚前交渉がどうのこうのというのは、昔の話だし、今の時代の若い人はそれはそれはやりまくっているのだろうか。
文系大学生に知り合いはいないので、さっぱり事情が分からない。
そもそも経験人数が2人いれば、私の仲間内では経験値に偏差値をつければ偏差値60程度行くと思うが、
(工学部の大学院まで入れても女に縁のなさそうな人間ばかりである)
至って真面目で素朴に大学に通って研究室で実験をしているような工学部の人間というのは、
はたしてどこで経験不足からくる性的幻想というのを取っ払うのだろう。
(一部には肉食系がいるが、駅弁工学部では学科の10%に満たないだろう)


私の身の回りにいる、一緒に実験するような人たちって、どこで幻想を振り払って、
最後には結婚まで行くのだろう。正直その過程というのが私はさっぱり思い描けないのである。
経験不足過ぎて。


セックスについては、文学なんかでも言及されるけど、「気のないセックス」だとか「深い性交」だとか、
確かに書きすぎると官能小説になるけど、一方で現実に忠実なセックスについて書いた小説は今まで見たことがない。
山田詠美氏の小説もいくつか読んだけど、なんだか具体的ではない。
どちらかというと、経験不足な人間が持っている幻想そのままを壊さないようなセックス描写の小説のほうがはるかに多いと思うが、
「現実の性交」というのを、書いた記事だとか書いた小説だとか、そういうのはあるのだろうか。
いままでさほど探したことがないから分からないけど。
これか?思いついた本だけど。


人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

愛撫・人の心に触れる力 (NHKブックス)

愛撫・人の心に触れる力 (NHKブックス)

スローセックス実践入門――真実の愛を育むために (講談社+α新書)

スローセックス実践入門――真実の愛を育むために (講談社+α新書)


現実のセックスというのは、本当に要領を得ないし、お互いがっかりするためにあるのではないかと疑ってしまう。
一方で、ドラマや映画、小説などで描写されるセックスというのは、美しく快楽もすさまじいようにデフォルメされているが、
人々はどのように異性を知り、セックスに幻滅しないで、結婚していくのだろう。
結婚する頃には、セックスに対する幻想などお互い取り払っている感じだけど、私は取り払おうにも難しい周囲の状況。
しかし、セックスというのは科学よりはるかに文章にするとおさまりが悪い。
読んでいて痛々しい文章になってしまう。
扱いにくい話題なのだろう。


私が自分本位すぎるのは確かだろう。
クンニリングスの時は、腰が引けているのが自分でも分かる。とりあえず愛想がてらやっている。
さらには向こうも向こうで、愛想がてらである。


結婚というのは、セックスはただの生殖行為だとお互い悟ってするものなのかなぁ。分からない。
ここまで書いてきて、頓珍漢なことしか書けないから、私はそうとう異性関係の問題には悩むであろう。
なんたってみんな家庭というのを持つのか。
お見合い全盛のころなら、まだ想像がつくけど、自由恋愛のこの時代のことは本当に分からない。
肉食系しか結婚のイメージというのはつかめていないのではないか。


新年早々、ひどい記事ですみません。自分の頭の中を整理する必要があったので。
読み返してみれば人間的に幼い。女が男を育てるってのは間違いではない。他には飢餓、貧困、戦争。
すべてに縁がない。女以外、すべて御免こうむりたいが。


世の中に恋愛の曲がたくさんあふれている。
私が昔、好きだった女の子(私の中では伝説化している)はYUIという女性シンガーが好きだといっていたけど、
彼女が歌っている「チェリー」という曲には、思いを止められない女性の気持ちが歌われている。
歌詞にあるような若い女性特有の甘い気持ちは、この世の中の男性の誰かに向けられたいたかと思うと、ひどく切ない。
間違いなくその気持ちの先に私はいないのだが、とはいってもそういう気持ちというのは存在しているけれど、
それが私という存在に向けられることはない、ということがひどく切ないのである。
私が紆余曲折の末に、いつか結婚できたとしても、そういう気持ちの果てにではないだろう。
もっと事務的なもののような気がしてならない。お金がどうこうとかそういう。
「運命の相手イデオロギー」というのが、しきりにドラマとか映画で押しつけられた商売用に作られたもので、
そういう気持ちは現実には行き違い、「運命の相手」というのを探すとろくなことにはならないというのはわかるけど、
そうはいっても人間は自分の気持ちを理想化して古来から唄ってきたわけで・・・。


でも地元のスーパーなんか歩いていたら、「恋愛へのあこがれ」なんて遠の昔に捨ててしまったような人が多いし、
そもそも昔であれば、貴族だとかそういう階層の人たちに許されていた特権のようなものだったのだろうと思う。
ゆえに私は恋だとか愛からはぶられる。