暗い・・・

昔所属していたサークルから飲みの話が久しぶりに来た。
引退まではいたのでこういうお誘いがたまに来るのである。
この留年しまくり、鬱人生でいく根性もないというわけではないが、
そもそも世代交代であまり知りあいもいないために、行ってもなぁという気持ちになる。


それで、ふと昔のサークルでの出来事を考えたら暗い気持ちになった。
あれは最後の引退の試合であった。
そこでいろいろあったのである。私の一人相撲ではあったのだが、いやその一人相撲が悲しくて、
精神状態はふらふらとなり、自己否定の感情、過去の否定、無意味な人生への失望となって私を苛んだのであった。
たったひとつの出来事で、私にとってはすべてがひっくり返った。
虚勢というのを張っていて、自分の目をごまかしていたのかもしれないけど、とにもかくにも私はその時点で、
私のこれまでの人生はすべて無意味だったと結論したようである。
大学は嫌い、親は嫌い、周りの人間は嫌い、そうやって私は私の周りに存在するすべての物事と関連性を失い、
というより放棄し、私の周りに輝いているものなどなにも見えなくなったのである。
多分、今の私があの頃に戻ったら他の希望を見出せるとは思うのだが、とにかくあの頃は一枚岩であったわけで、
希望を見出せなくなったのである。


とはいっても今、希望が見いだせないから、留年などしていなかった当時、大学でぼちぼちやってれば、
そのうち良いこともあるさ、と大学に集中すべきだと思えるわけだが、当時の私は大学に価値を認めていなかったので、
(いまも同じような状態ではあるが、卒業はしようとぼーっと考えている、精神的な不感症になったのだとは思うが)
とにかく自分の高校時代、受験、大学生活とすべて否定せざるを得なかったのである。
そうなると人間はもう鬱一直線である。昼夜逆転し、不眠症になり、大学に意味を感じられないからさぼりがちで、
最終的には学校にも行かなくなり、日々鬱鬱とした気分で過ごすのである。
未来は見えないし、(今だって未来は見えないがなんだか麻痺することで解決しているようである)
すべてが嫌だからどうしようもなくなるわけである。


過去に対する憎しみばかり募り、未来を見る目など一切なくなる。
いまキャリア教育受けているけど、ああいう明るい未来を切り開くためにみんなで「シューカツしようぜ!」っていう
ノリが嫌いなのも、私のいろいろが関係しているのだろう。
幸せなんてあるか、けっ!っていうような寂しいノリのほうがまだ納得できるのである。
でも思うにだれにどう思われるか、という価値基準は捨てて、自分の中の納得の感覚を頼りに生きていくほうがましと思うし、
そのほうが正直随分楽であると思う。
昔などは大学の授業ではすべて優秀な成績を収めなければならないと頭の隅で思っていたが、
そんなもの相性の合う教授の授業だけ良い成績をとればよいだけで、
自分とまったく別タイプの教授の授業でよい成績が取れないからといって気に病む必要はない。
でも昔の私はとにかく、この底辺地方国立大学に来たからには、人一倍優秀な成績を収めて卒業せねば、
まったく未来はないとなぜか脅迫的に思っていた。
脅迫的な親に育てられたからだろうけど。


でもそういう脅迫的な態度で勉強しても何も身につかないし、
この「勉強しないとどうしようもなくなるぞ!」という庶民的な感覚というのは、
百害あって一利なしの中流家庭にはびこる悪魔のように思う。
義務教育が始まる以前には、そもそも教育ママなどいなかったのである。
しかし、義務教育が始まり、中流家庭ができ始めると、「自分の外に価値基準を持った母親」というのが登場する。
彼女は、「高学歴で仕事柄のよい夫」というのを志向するわけであるが、ここに大変な落とし穴がある。
彼女に男の子が生まれた場合、「高学歴で仕事柄のよい男」に再生産しようとするわけだが、
この時子供に放つ言葉が、「勉強しないとどうしようもなくなるぞ!」である。
そもそも彼女自体、なぜ勉強するのか理解していない。
彼女は大学に行く理由を、「高学歴で仕事柄のよい男と結婚するため」とか「世間的に大学くらい出ていないと恥ずかしい」と
いうような「自分の外に価値基準」をもって大学に行ったわけだが、
彼女のうちから出てくる「知的好奇心」というものを前提とした勉強でも進学でも決してないわけである。


本来、教育を受けるはずのなかった彼女のような教育ママ予備軍は、とにかく「人によく見られるために勉強しなさい、
しなければ人から蔑まれる男になってしまうよ!(勉強しないと大変なことになるよ)」というわけだが、
本来、学問などはお金にも精神的にも恵まれている人間が、「知的好奇心の暴走の結果」として行われるものであり、
大学で大量に勉強するには、「知的好奇心が不可欠」なわけであるが、
教育ママ的価値観によって「勉強しなければ大変なことになる」というような背後から押されるような微弱な動力しか
持っていない人間は、たとえば「理系大学」などに行けば、まったく機能しなくなるわけである。
(実験レポートなりなんなり膨大な時間をかけて書く理由が分からないし、書きたくない)


私の数年前までの鬱は、そういう価値基準をはきだすための期間であったとは思うのだが、
(余計なプライドというのは、教育ママに刷り込まれた価値観を源にしていたはずである)
そういうプライドが折れた今、私は自分の中の価値基準で行動しなければならないはずであるが、それがなかなかできない。


サークルにいたころは、私の価値観というのも、なにか自分に不具合な出来事があればまるで崩れ去ってしまうような、
不安定な状態ではあったのだが、余計なプライドだけは一応持っていた。
実際、あのプライドは余計だったのだと思う。何かの折に出しきってしまったほうがよい種類のプライドであった。
それが今、すべて蒸発したかといえば蒸発していないとは思うけど、少なくともそれらに脅迫的に追われていた頃より、
はるかに自由になったとは思うのだが、(いろいろなものをあきらめたし)
ふと昔のサークル時代の知人から飲み会のメールをもらうと、あの頃の「絶望」を思い出す。
今の私があのころに戻ったら、例の件くらいでは「絶望」しない。
それはもちろん、「余計なプライド」というものがなくなったからでもあるが、「自分の外に基準がある」という
剣呑(なぜかこれが変換できない、これくらいの漢字は用意しとけ)な事態は改善されつつある。


「学歴コンプレックス」というのは、
基本的にはやはり「自分の外に価値基準があって、それにとてつもなく自分が支配されている」という状況から生まれるもので、
そのほかの世間で言われるコンプレックスというのは、ほとんど学歴コンプレックスと同様の源から発生するものと思われる。
あまり自由な状態ではない。むしろ大分不自由な状態で、そういう価値基準だと、
「無意味な苦労」というのができないのである。
無意味な苦労というのは、「自分の外部にあるとてもミーハーな価値基準によって、しても大して意味ないこと」のことで、
「この大学というのは、世間的にはどれくらいの学歴で、どの企業に行くことができるから、そのためにはこういう量の
努力をするのは経済合理性にも適う」というような、極めて資本主義的な価値基準による判断により、
「経済合理性に適わない無意味さを伴う活動」というのをするときに、私などは鬱に陥ったのである。
そうやって鬱になり、「価値基準のアウトソーシング」を止めてしまおうと多少は思いつつあるのが、今の私である。
そうやって戸惑い戸惑い勉強しているのが今の自分であろう。


過去にサークルに所属して絶望の淵に立った私と、今の私はこうやって考えてみると明らかに違う私なのだろう。
随分、サークルを引退してから時間もたったしなぁ。


この文章を書き始めたとき、もっと暗い結論を導くだろうと思っていたのであるが、
意外にも「昔の自分と今の自分は違う」という結論を導いた。
何時も文章は書きながら考えて、考えていなかった結論に行きつけばよいとどこかで思いつつ書くわけであるが、
今日は本当に自分でも意外な結論が出た。
多分、この考え方のほうが、今後はるかに自分自身を救うだろうし、知的生活もよいものになるはずである。