「確率の悪魔」読了

確率の悪魔―科学理論と現実のはざま (ケイ・プラス・ケイ・プレス)

確率の悪魔―科学理論と現実のはざま (ケイ・プラス・ケイ・プレス)


一応、ぱぱっと読んだ。とても面白かった。
ラプラスが「公正なサイコロは、どの目が出る確率は1/6である」というところから確率論を始めたらしいが、
これはそもそも公正なサイコロは1/6なわけであるから、
「どの目が出る確率も1/6であるサイコロは、どの目がでる確率も1/6である」というトートロジーから出発しているわけで、
そこは自明と譲ることによって成立した確率論というのは、
理系の学問にはもとより、文型の学問にも使われていて、挙句の果てに「偏差値」という概念は、
社会に対してとてつもなく大きな影響を及ぼしているので、それに警鐘を鳴らそうだったり、
その確率や統計を適切に運用できているのか、ということに注意を促す本。


いま私が勉強している、確率統計の本も、三つの公理から始めているが、
その公理をたとえばサイコロにたいして適用するときに、「公正なサイコロ」というのは当然出てくる。
ふと見逃してしまいそうな「公正なサイコロ」であるが、それ自体がすでに確率というのを含んでいるわけで、
え?だったらそれに基づいて、そのサイコロをどうこうしていかなる確率を求めよ、という問題自体、
ただの「言い換え」に過ぎないじゃないの、ってことらしい。


ガウス分布に関しても、このような同義反復があるらしい。


そういう足元のおろそかな確率論を運用して、たとえば量子の世界を把握したり、地球の未来を予測してみたり、
子供一人一人を偏差値で数値化したり、人類はしているのであるが、
その「数学的形式」を見ると、たいていの人間が委縮して、
批判精神を失ってしまうのであるが、そういう思考停止はしないで、きちんと自分で考えて、
その意味を把握しなさいと言っている。
とくに医療や経済、社会に関する統計的データなどは眉唾もんのようで。


物理というのは、理想的な多粒子系を考えて、確率論を適用しやすい系を理想的に考えて理論を作るわけだが、
社会学などで、無理やり統計を使って強引な結論を出しても、多くの人間がその「数学的形式」に騙されて、
人間の尊厳まで侵される事態まで発生するので、要注意だと。


あとは決定論と非決定論の相補性など聞きなれない(おそらくボーアなんかを参考にしたのだろう)
内容もあったし、ハイゼンベルグや有名な分子生物学者などを引用したり、人間原理構造主義など
幅広い知識を引用して、
(読んでいて苦労が伝わってくる、とにかく本当のことを言いたいというのが伝わってくる、
気苦労の多い性格の著者だろうということが想像できる)
挙句の果てに、自分の論考でさえ、トートロジーを含む「一つの物語」でしかないと言い切り、
読んでいて息も絶え絶えの著者が向こう側に見えそうなくらいである。


アマゾンではあまり評判が良くないが、確率というものは一体何ぞや、その運用とは一体どうすれば?
なんてことを考えるときに、一つの手掛かりになるのではないかと思う。
ただ、こういうことを考え始めると、実験データから結論を導いたりする時に、
頭がパンクすること必至であろう。
科学の苦労というのはそこにあるのだとは思うが。


ただ、科学者になるためには、確率論がもつ性質というのをきちっと理解して運用しながら、
データ解析などをするべきであるし、(考えすぎると多分病むだろうけど)
一度この本を読んだだけでは、把握しきれない「知っておきたこと」というのが詰まっているような気がした。
なにか具体的にデータ整理でもしながら、行き詰った時にふと読んでみるのはよい本かもしれない。


実際、かなり哲学よりの本で、実用には向いていない。
そもそも実用ならデータ整理の本を読むべきだけど、この本には無視できないものがある。




それで今日はこの本読んだけど、なんだか頭がふらふらして、体もふらふらして、
文章もふらふらして、なんかどうしようもない感じ。
将棋なんかも指したが、指すたんびに負けて、5級まで落ちた。
なんだろう、このふらふらな感じは。