図書館で砂川氏の物理入門を見つけた

今日も図書館に行ってきたのだが、(電磁気は進んでいないので今晩やる、確率統計には取り組んだ)
図書館をふらふらしていたらいろいろ面白そうな本が目につく。
面白そうな本が目につくのはやはり良いことである。
精神状態が悪い時だとかは、何にも興味が持てなくて、本屋に行っても図書館に行っても、
読みたい本はないものである。


量子のからみあう宇宙

量子のからみあう宇宙


あとは通俗本としてアクゼル氏の「量子のからみあう宇宙」を読んでいる。
量子の絡み合いという現象は、とても不思議ですね。
とりあえず来年の春までには量子力学に行きつきたいのであるが、今は電磁気、確率統計から統計力学くらいまでしか
手を出せない感じである。力学もやっとくつもりであるが。
言ってみれば古典物理学の中で一杯一杯なのであるが、統計力学くらいまで行けばあれは古典物理学と現代物理学の
橋渡しという感じであるから、今学期中に私は19世紀の初めくらいまでの科学には追い付けるかもしれない。
春が終われば量子論もある程度進み、現代物理学の初歩までもしかしたらイケるかもしれない。


今年の6月のフーリエ解析でのリハビリから、ベクトル解析、電磁気学まで学んできたが、学ぶのが楽しくなってきてはいる。
けれど、なかなか進みが悪いのは仕方がないか。徐々に徐々に勉強時間を増やしていく。それだけ。


アクゼル氏はこんな本も出している。早川書房は科学通俗本に関してはすごいですね。
下の本もいつか読みたい。


宇宙創造の一瞬をつくる―CERNと究極の加速器の挑戦

宇宙創造の一瞬をつくる―CERNと究極の加速器の挑戦


現代物理学になると難しい数学が出てくるイメージでとても困っている。
複素解析も難しいし、偏微分方程式も難しいイメージだが、未だろくに取り組めていないのでどうしたものか。
複素解析偏微分方程式くらいまではできないと、なかなか良くない。
だけど夏休みにはベクトル解析を勉強したので、それなりには電磁気学は理解できるのであるが、
物理と並行して数学の勉強もしないといけないし、そう考えると物理学を学んだり数学をしたりしている人の
頭の良さというのは私には計りきれないものがあるように思える。
地方国立の工学部では、物理学といっても、通俗科学本の域を出ない程度しか物理も数学もやらないのである。
複素解析などたとえば東京大学出版の複素解析の本全部をテスト範囲にしたら、9割5分の人間は落ちることと思う。


そんなことを言っていても仕方がないので、私は私のやるべきことをコツコツとやっていけばよい。
フーリエ解析、ベクトル解析、確率統計は今年中に上手くいけば出来たということで、
これはなかなかの成果といってよい。半年の成果としてはまずまずなんじゃないかと思う。


あとは砂川先生の物理入門が本棚にあって、力学から電磁気学統計力学、特殊相対論、量子力学まで扱っている。
巻末のブックリストもなにやら面白い。
最初のまえがきも、物理用語の「仕事」というのはどうしてあのように定義されているのか、そういうことを
書いている物理学書はなかなかないということで、物理を根本から理解するためにそういうことにもメスを入れた、
というようなことが書かれていて、さすがは砂川氏だと思った。
砂川氏の物理初心者用の本は、とてもフレンドリーに書いてあるのである。
こういう本はなかなかなくて、最近マセマとかそういう本もあるが、あそこまで行くとなんだか嫌だ。
「ナットクする○○」とかいう本もあるが、あれもあまり手を出したくない。
硬派は教科書と、軟派な教科書の間くらいの本が今のところ私には一番勉強になるのだから、
そういう本を求めているのだが、それは砂川氏の初心者用の物理学書が満たしていると思う。
いつか「物理入門」も読もう。


物理入門〈上〉力学・電磁気・熱 (1981年)

物理入門〈上〉力学・電磁気・熱 (1981年)

物理入門〈下〉相対論・量子力学 (1981年)

物理入門〈下〉相対論・量子力学 (1981年)


(追記)
今年の2月の暴行事件の被害者になったころの記事を読み返すと、随分回復したなぁと思う。
「何かを学びたい」という願望というのは、要するに将来への希望である。
あの頃は大学に8年いるということが決定した時期だったし、さらにはぐだぐだ何度も留年して、
そこから勉強を始めて他の大学の大学院に行こうと思って焦りながら勉強していたのであるが、
(英語などにも取り組んでいた)
12月の時点で、他大学の大学院を受けるほど勉強は進んでいなかったし、さらには学校のほうも上手くいっていなかったし、
願望だけが浮遊した形で私の頭の中に存在していて、それだけに焦りながらも無力感を感じていた。


しかし、今年は無力感を感じながらも6月からフーリエ解析にも取り組んだし、ベクトル解析、電磁気学まで来たわけで、
地味に歩みを進めているわけであるが(昨年は微分方程式などをやっていたと思う)
あの頃、勉強する理由を与えるために無理やり作った他大学の大学院進学という目標を追いかけていた時より、
何のためなのか分からないけど、やりたい勉強をしようと思って勉強しているほうが、はるかに楽しい。
砂川先生の本を楽しんで読むなんて、去年の精神状態からは想像もつかないし、
そもそもそれまでの留年だって学校にまったく魅力なども感じないでほとんど不登校だったわけであり、
あの「人生史上最悪の気分で過ごす2011年2月」という極小点を過ぎて、人生自体が上昇に転じたのだろう。
あの頃の記事を見ると、「落ちるところまで落ちた」という記述があるが、実際その通りだと思う。


そんなことを考えながらふと高校時代のことを思い出した。
あの頃はとてつもなく孤独だったと思い返す。
3年間、特進クラスで頭の良い連中と一緒に過ごした。
今振り返れば、とてつもなく賢いクラスにいたのだと思うが、私といえば別段目標があってそのクラスに入ったわけでもなく、
親に言われて入っただけで、そもそも高校入試の勉強も、言われたままにやっていただけで、
結構な苦痛を強いられたのだが、それなりの結果を得られて、晴れてそのクラスに進学したのだが、
指示されて仕方がなく勉強していた私は、自分自ら勉強するという習慣は全く身についていないで、
あの賢いクラスでぱっとした成績を上げることもできなかったし、
その上中学のころから人と関わることが苦痛になってきて、別段クラスの人間と話すこともないし、
正直一人でいるほうが気楽だったのだが、その一方でとてつもない孤独を感じていた。
飢餓にも似た感覚で、誰か自分と気が合う人間が必要だという気持ちに苛まれていたように思う。


大学に入って、一年目は孤独に暮らしていたわけであるが、二年目に弓関連の部活に入り、
そこで切磋琢磨した友人が、私の人生上一番の親友であり、今でも交流があるわけであるが、
彼との交流が私の飢餓感というのを埋めてくれたように思う。
その後、私の神経質な性格というのは、徐々に変革を迎え、今に至るわけであるが、
高校時代から振り返って、色々あったなぁと思う。
とてつもない孤独の中で暮らして、終わりのない退屈の日々を送っていたり、
自分の飢えのようなものが満たされて、ある程度充実していると感じる時期があったり、
高校のクラスの人間と比較して、自分の学歴がぱっとしないことで勉強する目的も見つけられなくなり、
落ちるところまで落ちたりする時期を迎えたり、
また失恋して自己否定の連続の日々を送ったり、
またあるいは勉強を希望を持ってするような日々に転じたりすることもある。


8年大学に通っているわけで、それもぱっとしない地方国立大学だから、世間でいう「負け組」なのだろうが、
ただ、大学で過去問を共有するために友人を作り、たいしてノリの合わない人間と笑顔をひきつらせ会話しながら
普通に卒業していく人間にはなりたくないので、自分らしい人生は送っているのではないかと思う。
本を読んだり、勉強したりして楽しんで生活している現在は、あの「落ちるところまで落ちた」日々よりは、
はるかにましのように思う。
あの頃の自分が今の私を見たら、その平穏さ、楽しさを見て、うらやましがる事だろうと思う。
その価値を知ったのが、あの「落ちるところまで落ちた」日々だったのだと思う。
平穏さがうらやましいなんて思うことは、そういうことがないと思わなかっただろうなぁ。


何にしても、私は私の人生を生きている。
「落ちるところまで落ちた時期」というのも、なにやら今では財産である。
あの衝撃的な事件が二つも重なった時、私の精神はとてつもない苦境にさらされていたのであるが、
その苦境から学び取ることというのは、今思えばあったのだが、当時はつらかった。


ただ、あのころを忘れてはならない。
「人生史上最悪の気分で過ごす2011年2月」は忘れちゃ駄目だと思う。