下宿に戻ってきた、夏休み雑感

今年の夏休みは、多くを実家で過ごした。
大学に行かなくなったり、留年しまくったりしていたこの数年は(留年は現在進行中であるが)
実家との仲も良くなかったし、サークルやバイトなどもあったので、
夏休みに実家で家族と一緒に過ごすということをしてこなかったわけであるが、
今年の夏は随分と多くの時間を親族と過ごした。


祖父母の家に行って、親戚とも話したし、
少なくとも孤立した夏休みではなかったのかもしれない。
ただ、パソコンに向かって生活し、時に勉強するというような、孤立した時間を多く過ごすことによって、
勉強効率は上がらないし、孤立しているし、という時間をこれまで多く過ごしてきたし、
何よりそのように孤立して生きることで、「生きる力」というのがどんどん抜けていくような、
そのような生き方を選んできたのだろう。


所詮人間は孤独だと思って暮らしてきたわけだが、(だからこそ勉強も「一人」で、生活も自由がきくように「一人」で)
こういう生き方というのも限界に来ていたのだろうと思う。
どんなに勉強して、たとえば宇宙の大統一理論を開発することができたとしても、
宇宙に自分たったひとりだとしてそれを伝えることはだれもできないし、
あるいは誰にも伝えることができないものを、独自に開発することはできない。
(論理的にはできるけど、そういうことはおそらく人間の特性上不可能であろう)


ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島でどれほど厳密な手続きで、
どれほど精密な実験を行っても、科学的真理に到達することはできない。
それは彼が実験によって到達した命題が科学的に間違っているからではない。
命題の当否を吟味するための「集合的な知」の場が存在しないからである。
科学者たちが集まって、ある命題の真偽について議論するための「公共的な言論の場」が存在しないからである。
「反証不能」とはそのことである。
命題そのものがどれほど正しくても、他の専門家たちによる「反証機会」が奪われている限り、
それは「科学的」とは言われない。
それと同じく、情報リテラシーとは個人の知的能力のことではない。
「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すことである。」


「ラジオ版学問のススメ」で、内田氏が言っていたが、
どんなメッセージであれ、それが自分のために発せられて、それが自分を導くための言葉であると、
たいていの言葉を受け止めることができる人間は、幸せに生きるし、そうでない人間は不幸に生きる、
都合のよい受け止め方をして生きていくというのは、馬鹿なことではなくて、それ自体が「生きる力」だと
いうようなことを言っていた。
同氏はなにかの本で「孤立と孤独の違い」というのも説いていたはずであるが、
私は孤立しているのであって、孤独を生きているわけではない。
また「師弟論」も説いているが、人はそのような師を自分の中に作り上げることによって
(それは神のような存在なのかもしれない、一種の個人的な宗教といえるであろう)
人は一人でいても孤独にならないのである。
それは「知的パフォーマンス」を向上させるし、「人生をよく生きる」ということにもつながる。


また同じ番組のポッドキャスト加藤諦三氏が「誰とも打ち解けない人間」について言っているが、
仕事熱心で、土日も休まない人間というのは、「仕事熱心という形で他人への敵意が噴き出している」と言っている。
他人への敵意というのは、これまで私をけなしてきた多くの人間に対して、仕事ができる自分というのを見せつけることで、
他人を見返してやろうという「敵意」である。
それはたとえば過去に仲間外れにされたり、いじめられたりした経験というのが、
人をそうさせるわけである。
私は過去に弓を頑張っていたが、加藤氏がいうような「土日も休まず練習する」人間であった。
個人競技であり、ただ自分が頑張るだけで結果が出ていく競技で、(いまでいう将棋24みたいなものである)
だからこそ、私は他人と差をつけて、結果という形で「他人への敵意」を表現することで、
過去の自分の集団競技での存在感のなさを、他人が自分の価値というのを理解しないためであったと
それを言うために私は頑張っていたわけである。


その後、私はバイトをして、弓でも結果を出し、経済的な独立を獲得しつつ、学歴的に見栄えのする
他大学の大学院に進学し、納得のいかなかった大学受験、それ以前のすべての集団スポーツの部活での屈辱を晴らし、
自己肯定を行おうという無茶苦茶ハードな目標を立てたのであるが、
(それができていたら今の私はいないし、あるいは他の意味では幸福であるが、
もう一方の意味ではもっと不幸な私が存在していたかもしれない)
それは加藤氏がいうように「当然失敗し、挫折する」という運命というしかない道を辿ったわけである。


何より私の動力というのは、「他人への敵意」であった。
兄弟の中で妹だけを尊重し、私をないがしろにした家族への復讐、
大学受験で私という存在を負かした多くの人間への復讐、
要するに「他人への敵意」が私の原動力であり、今やっている専門科目が私にとって大切だとか、
自分の心の中から学びたい気持ちだとか、その仕事、科目が好きだとか、
そういう「クリーンなエネルギー」では動いていなかったのである。
「自分をどんどん削っていくような禁欲的な努力」とか、「自分を蝕んでいき次第に弱っていくような努力」だとか、
そういう種類の努力しかしてこなかったようである。


この夏に、電磁気学を勉強したが、砂川氏の分かりやすく見事な教科書を読んで、
すごいなぁ、面白いなぁと思うようなことが一瞬あったが、
そのような現象というのは、私にそれまで起こることはほとんど無かった。
大学も7年目になったわけで、出世だとか、誰かを見返すためだとか(そういう気持ちが0ではないが)
そういう俗なことを思う気持ちも抜けてしまって(力が抜けた状態であろう)、
改めて勉強を始めたとき、それ自体を楽しもうとしたのは、ごく最近のことかもしれない。
結果ばかり追い求めて、仕事が好きでもないくせに、他人への敵意が原動力で、自分を蝕みつつ努力している私というのは、
当然の運命をたどってきたのではないかと思う。


過去に私が好きだった異性がいて、その女性はとても美人であった。
笑顔も素敵で男によくモテた。
私が彼女を好きだったのは、彼女をものにすることによって他人への敵意というのを発散しようとしたからなのだろう。
彼女は私の中のその無意識を悟り、私から離れて行ったわけであるが、
私が彼女に対してまともに話せなかったのはその後ろめたい理由を隠したかったというわけであろう。


私の人生は「他者への敵意」に満ちているし、それが原動力でこれまでの人生も動いている。
大学受験の時、初期に「自分を蝕むような努力」をすることによって、結果がでたはずなのに、
徐々に徐々に落ちていくという現象にであったわけであるが、
その頃から原動力というのは、「他者への敵意」であるわけで、今までの人生をそうして送っている。
そうではない方向へ向かうために何かしないといけない。
加藤氏の言葉をwalkmanにいれて常に持ち運んで、できるときは聞いておこうかと思っている。
なかなか意識というのは、変わっていかないから。


ちなみに、なにかネガティブなことをブログなりなんなりに書いていくということは、
「writing cure」という立派な治療法のようである。