戦争


8月といえば原爆の日終戦記念日があるので、ネットを見ていても関連情報が目につく。
当時を振り返ってネット上で議論ではないけれど、どう思うか匿名でやり取りしたりするわけである。
殊に神風特攻隊について若いネットユーザは自分と比較しながら当時の映像を見たりする。


白黒の映像しか残っていないのだが、当時のパイロットの学生(当時の大学生を中心にパイロットは選ばれていた)の
遺書というのは、文学者が手を入れたかのようにも錯覚してしまうほどの、卓越した文章で書き綴ってある。
今の大学生に書けといわれて書ける文章ではない。
(上位校の学生はかけるかもしれない、私は上位校ではないのでわからない)
また、映像を見る限り、とても気概のある顔をしているのがよくわかる。
白黒だからそれが強調されるのかもしれないが、今の日本人の若者とは明らかに容貌が違う。
私も彼らと同じような歳であるが、もっと幼稚な顔立ちである。


戦前の日本がどうだったのか、私などは歴史に疎くて全く分からない。
断片的に阿川氏の著書を読んだり、かわぐちかいじ氏の漫画を見たりして当時の日本というのはどのようなものだったか
想像を巡らすのだが、どの情報もデフォルメされているために何が真実だったのかわからない。


当時の日本人は気概があったという。
阿川氏の文章を読んでいても、昔の軍部エリートの気概というのは、今の日本人にはないようなものとして
描かれているように思う。
かわぐち氏の漫画にしても、当時の指揮官は文武両道、強固な意志を持つ有能な人間として描かれている。


一方で憲兵の極悪さは「はだしのゲン」でも読んだ通りだと認識している。
はだしのゲン」は作者が反戦論者であるため、子供心にも印象に残る「非国民」という言葉で罵倒されるシーンが
よく描かれていたように思うが、当時の日本の雰囲気というのは、
まだ存在していた「共同体」の作りだす「空気」には逆らえないような雰囲気があったのだろう。
自由主義者はそのファッショな雰囲気に嫌悪感を感じただろうし、一方でその共同体には
相互扶助システムとしていいように機能していた部分もあるのだろう。


GHQによって教育改革が行われて日本人は白痴になったといわれる。
占領国の教育をいじって、二度と戦争を起こそうなどという気を起させないために、
去勢しておこうというのは、占領国であれば当然考えることであろう。
漫画ではあるがかわぐち氏の「ジパング」では、そのような戦後教育を受けて防衛大学をでた自衛隊の幹部と
旧海軍の幹部がやりとりするシーンがある。
明らかに日本人は戦後教育によって去勢されたという前提で、旧海軍のエリートは自衛隊の幹部に言葉を贈るのである。
また、かつての戦前の旧制高校の雰囲気を今の教育の現状と比較して、嘆く教育者もいる。
勉強しないことを誇るような文化はいつからでてきたのかと。
もしかしたらそれは占領国が日本人を白痴化させるために仕掛けた一種のプロパガンダかもしれないし、
日本の国力をそぐ陰謀だったのかもしれない。


現在はフジテレビが垂れ流す韓国偏重の報道を批判する人間が出てきて、
その「空気」に流されて多くの人間が、反韓運動に賛同しようとする世相である。
20代の私は、他国排斥(フジテレビか過剰なのかどうかTVを見ないのでわからないが)運動が、
このような形で表面化するのは初めて見たような気がする。
私が時事に疎いというのもあるが、ネットで人間がつながってこのような運動になったのは、
生まれて初めて見た。
仮想敵を作ることでまとまろうとする一種の安易な愛国行動にみえなくもないが、
どちらかというと流行が先導しているようにしか見えない。
日本、日本と連呼してまたファッショな戦前の時代にカムバックするのは多少恐ろしいように思えるが、
こういうことを書くと、売国奴とか糞左翼とか言われかねない。


ただフジテレビは子供のころにはよくみたし、かの放送会社の論調が
私の思考の奥底に沈澱しているということはやはり否定できない。
日々、刷り込まれることで自然と違和感がなくなるのは当然であり、
それが常識だと思うのも当然である。(子供なら特に)


ネットで愛国を唱える人間はどういう人間かということを論じた人間もいたような気がする。
実は友達もなにもおらない孤独な人間が、現在では他国排斥を唱えて愛国をうたうが、
それは戦略としてはあまりにチープですよ、と書いた人間もいた。
これはいわゆる左翼に分類されるような言説なのであろうが、これを言った人間自体はマルクスを読もうというような
本を出していたと記憶している。


こうして自分の歴史観(というほどのものでもないが)を省みてみると、
アクセスのしやすいソースからの情報でしかなく、そういう人間が多いという時点で、
占領国の目論見は成功しているのかもしれない。
明らかに大衆の域をでることができない。
というより確固とした歴史観というのは「思い込み」によるものだというようなポスモダの
一面が私にも作用しているのかもしれない。
もし国があって国力の増大を図りたいのなら、より彼らが国益にかなう行動をするような歴史観
与えなければならない。
それが「幼稚な愛国心」であっても、そのためにはないよりあったほうがましである。
それを削ぐことはすなわち去勢に成功したということなのだが、私はその去勢成功の中で生きているから、
このように語るのだろうか。


政治やかつての戦争についてのお話は、なるべく話を聞こうと思うが、
一体なんだったのだろう。
あの敗戦は何だったか、そんなことをこの時期は振り返るような情報に遭遇するわけであるが、
今のところわからない。
年寄りになって歴史を徹底的にお勉強する機会があったとしても、おそらく本を何冊も読むという形でしか、
私は調べないであろうし、自分の確固とした意見を持つようになるなどいつになるやらわからない。


一応今は面白そうな新刊が出ていたので次のような本を読んでいる。
8月は戦争を振り返る関連の文庫が出版されるが、よく売れる「コンテンツ」として扱われているのかもしれない。
ただずっと「コンテンツ」として存在していると、そのうち神話のようになってしまい、
はるか昔の抽象的なお話になってしまうことが恐い。
かつての戦争は一体何だったのだろう・・・。
ただ中公文庫というのは、ラインナップを見ても右寄りの出版社のように思う。
そもそも左右が相対的な用語でしかないので、現在の世論を中心としてという意味である。
現在が左に寄りすぎていて、かの出版社が健全な愛国心のもとにラインナップを作っているのかもしれない。
戦後世代の私についていえば、「どちらなのかわからない」ということ自体が、そもそもな問題のようにも思える。
政治思想を語る場合、この「左右論法」を超越することは多分不可能なのだろうとは思うけれど。