立花氏の大学論

東大生はバカになったか (文春文庫)

東大生はバカになったか (文春文庫)


この本の多分ハードカヴァーの本だろうけど、図書館で見つけて読む。
立花氏の本はあまり読んだことがない。
「知のソフトウェア」は立花氏が書いた本だっけ?


昨日は(といっても今日のようなものであるが)、
工学部の大学教員が書いた本を読んだが、今回は教養部の教員が書いた本である。
同じ大学の人間だけど、工学部と教養部の教員は随分違うものである。


基本的な立花氏の立場は「リベラルアーツ教育」に軸があると思うが、
一方で工科の教員は、専門教育にウェイトを置いている。
立花氏は、教養を広げることにこそ、研究開発を進めていくための独創性を養うのだというが、
おそらく工科の教員に言わせれば、なるべく大学低学年の時から専門教育を叩き込み、
3年程度で研究室でみっちりと教員と大学院生で鍛える、という方を押すだろう。


立花氏は東大の仏文出身らしいが、法学部の人間を嫌悪している。
パンを食べるために(利権のために)学問を利用しているという。
立花氏は量子論について口角泡を飛ばす議論に熱中したというが、
学生にもいくつか種類があるように、そんな青臭い哲学議論には関心を示さないで、
現実的な問題(就職や女など)を優先する人間ももちろんいる。


立花氏に言わせれば、大学院までいき学問を究めることこそ、本流というような事を言っているが、
それは彼がリベラルアーツ教育の信望者だからだろう。
一方でパンのための学問の信望者もいるし(官僚などがそうだろう)、
チームをがっちり組み、授業にはJABEEよろしくきっちり出席させ、
専門教育を叩き込むという工科の教員もいる。
そんなわけで、「知とは何か」ということに、統一的な議論は得られるはずもなく、
どこかに偏り著者ベースの議論になるわけで、しかしリベラルアーツが好きな人は、
読んだら力が湧くのではないか。


筆入れを家に忘れたので、大学の図書館に行って仕方なく読んだ本であるのだが、
私の行きつけの工科系の大学図書館なのにも関わらず、この本には鉛筆で文章を括弧で囲うなどという
「どなたかが読んだ形跡」があった。
おそらく私の前に本を汚して読んだ人間は、まだ低学年の人間だと思われる。


立花氏の「頭の中に何を入れるかはその人の自由であり、
何を入れて頭の中をどのように耕すかも自由であるのだから、自分で自分に責任を持たなければならない」
というような内容にひどく感心したようで、鉛筆で文章に印がつけてあったのだが、
ひどく陳腐なところに印をつけるたものだと思った。


おそらく工学部というところで、制度に強制されて、実験をし、専門教育を叩き込まれる過程で、
立花氏のいうような夢のある「リベラルアーツ」に中てられたというのが容易に想像できた。
この工学部では、いくら立花氏の本を読んで、その思想に魅了されても、
次から次に降ってくる専門教育の詰め込みと、パンのための学問をする周囲の学生の腐臭で、
そんな思想に一時は魅了されても、数日後には木端微塵に散っているに違いない。
それだけ工学部と教養部のあり方は違うと思う。