なんか気が滅入った

どっと気が滅入るときがある。
将来に対する漠然とした不安。現状に対する不満。
今日もそうで、現実に対してとっかかりというものがまるでつかめないで、
すべすべと滑って落ちてしまうような感覚に襲われる。


私という人間は、何に対してもコミットできない。
そんな気持ちに襲われる。
とりつく島がない、というような感じである。


今している勉強も、もしかしたら本当に無意味なものかもしれないと思い始める。
いや、そもそも勉強に意味なんてないのではないかと思う。
例えば今日さらっと読んだヴェイユの自伝を読んでいた時もそんなことを考えた。



この自伝の中で、彼の妹は神童パスカルの再来のような兄と比較して自分の無能さを呪い、
さらには自殺まで考えるということが書いてあった。
数学者になった兄と比較して、自分は何たる愚鈍だろうかと思ったようである。


一方で、これは兄の自伝なのであるが、この兄というのは自伝に挫折した体験などはまったく書いていない。
ハイゼンベルグの自伝にしてもそうであるが、自分が無能であったことなど書かない。
何に対しても卓越していた、というように書く。
これは自伝だから仕方がないのだろうが、ハイゼンベルグの場合、理論方面では大いに活躍したが、
実験方面では成績は良くなかったようである。


しかし、この数学者の兄は、自分自身を全く非凡な人間と位置付けているし、
それはそれは幸せな「学校生活」を歩んだことなのだと思う。
ただ、勉強ができるということは、ヴェイユの妹が兄を羨望したように、
「学校で優秀な成績を残して、とび級までする」ということなのだろうか?
本当にそうなのだろうか?
授業で教えられたことを、確実に再構成する能力があればそれはできるだろう。
それは果たして彼女が兄について羨望したものそのものなのだろうか?


一方で、このような再構成能力についてこの卓越した兄は批判的で、
知性はあるが、独創性はない教師に関してはひどくこき下ろしている。
彼の独創性とは一体何なのだろう。
私は群論を読む教育も受けていないのでわからないが、彼の群論はそんなに独創性に富んでいたのだろうか。


独創性とはなんだろう。
彼女が兄に対して抱いた劣等感というのは、具体的に彼のどんな能力に対してなのだろう。
なぜ、学校における秀才が全てを持っているように思えてしまうのだろう。
妹が言っていたように、「真理は切望するものすべてに与えられる」と信じて、
それに対して自己嫌悪を抱きながらも、彼女は行動した。
一方で、兄というのは、自らを独創性と知性に富んだ人間だと自任していた。
この二人を比較して、本当に優秀だったのは兄なのだろうかと疑問に思う。
私にはこの兄貴が、まるで世間の中でこそ自由気ままに泳ぎ回ることができるロボットのようにしか
思えなかったのは何故だろう。
彼が書いた文章を読んでも、味も何もしなかったのは何故だろう・・・。


いま私がやっているのは、ある数学分野を理解して、さらにはそれを自分の頭の中で、
再現できるようにしようとする勉強である。
一体それに何の意味があるのだろう。
そもそも学問ができるというのはどういう状態を指すのだろう。
再現性があることか?
それは本質ではあるまい。
だとしたらヴェイユのいうように、天賦としてしか与えられない「独創性」のことだろうか。
「知性」とはなんなのだろう。


具体性のないものだから、人は偏差値に換算したくなる欲望に負けてしまうのだが、
果たして勉強するということは一体どういうことで、さらにはそれをし続けることは一体何になるのだろう。
そんなことを思いつつ、なんだか今やっていることがすべて無駄に思えて、
さらには精神がまるでばらばらになってしまいそうな感覚に陥った。


天気が悪いからかもしれない。