時代の空気に中てられる

知性の叛乱―東大解体まで (1969年)

知性の叛乱―東大解体まで (1969年)


図書館の書庫をぷらぷらしていたら、山本氏の学生運動についての著書があったので
ささーっと読んでみた。


医学生の処分から始まった、大学への不信は、日本の権力構造それ自体に向けられるようになった、
というのが大まかなお話の流れのようである。
当時は、マルクス主義も流行っていたし、さらにはフーコーサルトルといったポスモダの思想家
サルトルは違うと思うが)
が1960年から1970年の間に出現して、
私がこの本を読んだ印象としては一種の「ルネサンス」のように思えた。


フーコーがいうように、
「古代において剥き出しだった「権力」は、近代になり、「学術的な知」を介して、
むしろ徹底的に行使されるようになった」
ということは当時の学生の間では常識だったであろうし、
またマルクスが広げた大風呂敷、
「これまでの歴史は、ブルジョアジーとプロレタリアの闘争の歴史であった」
というのも学生運動家の中では常識的な現状認識であったのだろう。


東大、京大などは、高級官僚、高級技術者、などを輩出する一方で、
日大、中大などの私立大学では労働者としての教育も行わないで、
四年間労働者を貯めている、という記述があり、なかなかラディカルな考えで切りこんでいたのだなと思う。
私の現在通う大学は、旧帝大ではない地方の程度の低い駅弁大学であり、
例えばその工学部では、均質で個性のない大量生産の技術者を作り上げる国家的な機関であると
私は実際に思うのだが、
一方で、大学の基本はリベラルアーツ教育なのだと、勘違いして入学してくる情報弱者の入学者も
たくさんいるはずである。
私自身そうであったのだが、閉鎖的な研究室と専門性にしか特化しない、就職工場としての大学というのは、
当時の学生運動家の批判の対象になっていた。
私と同じようなことを考える人間というのは、もう半世紀前から存在して、
一時は大規模な運動になったのであるが、彼らはほとんど何もできないで後世に影響を与えることは
なかったのだと、私はこの本を読みながら思った。


学生運動家が思ったような人間性の回復、学問の本当の意味での復権というのは、
今現在の状況をみても達成されておらず、ますます人間は追いやられ、学問はブルジョア的なものになっている。
最近では、リクルート系の学生も横行し始めて、まさに人間=労働者=社畜というような図式が完成している。
いまのリクルート系の学生が、当時の学生運動家と社会認識についての議論をしたら、
間違いなく喧嘩になると思うのだが、時代は無情にもこのように流れているわけである。


と、本を読んでこのようなことを思ったのだが、私がこのように考えること自体が、
この本に中てられたという精神状態で、
彼らがいう甘くておいしそうな人間世界というのは、それほどの魅力を持っているのであるが、
悲しいかな、人間社会の本質がそもそも猿山なんだから、マルクスが唱えたような楽園などは、
おそらくこの世には存在しえないと思われる。
人間社会の本質が猿山なら、彼らが重視した「理性」というのはどこに行くのかと思われるが、
現状からして「理性」の力というのは、それほど強く働かないのだろう。


時代の空気に中てられそうになる本であった。
彼らが大規模な行動に出たのも分かるような一冊である。




話は変わるが、ヘルマン・ワイルのハイゼンベルグも読んでいたという「空間、時間、物質」も
図書館の本棚に並んでいたので、読んでみたのだが、
これは私が受つけない本であった。
知性が明らかに追いつかない。
哲学と数学と物理学を入れ混ぜたような本なのであるが、難解であるし、純粋すぎる・・・。