πの歴史読了、お勉強

πの歴史 (ちくま学芸文庫)

πの歴史 (ちくま学芸文庫)

先日買った「πの歴史」を読了した。
ニュートンガウスオイラーなどの本格派にはべた惚れですね。
一方でパウリはニュートンに対して批判的な意見を述べていたし、
ハイゼンベルグプラトンらのギリシア哲学にほれ込んでいたが、
著者ベックマンは、ギリシア時代の哲人、特にアリストテレスについては白痴呼ばわりである。


著者の一貫した意見といえば冒頭にあるように次の通りである。

無知、反科学それに反技術という感覚は、過去において間違いなく専制政治をはぐくむ土壌であった。
古代の帝王たち、中世の教会、太陽王、それにSで始まる国家の権力の源は、
つねに暴力的に支配されている人達の無知に根差していた。
反科学それに反技術という感覚は、いまや個々の人の自由を踏みにじる温床となっている。
「社会」という無意味な名前に隠されている新しい専制政治が、すでに地表戦に現れているのだ

このスタンスは、作中の中でずっと一貫している。
だからコンピュータ技術に対する人間性復古の拒否感というのも愚かだと批判する。
その気持ちは私は分かりますが。


この本が書かれた時代は、まだチェスプログラムが人間のチャンピオンを負かしていない時代であるが、
ソビエトも崩壊していなかったので、反共産主義も強固として貫かれている)
現代ではチェスプログラムには人間はもはや適わないし、
つい最近では将棋24で行われたプログラムと人間の抗争は、プログラムの強さというのを知らしめた。


面白いことに、著者はコンピュータは愚鈍だという。
その理由は、よく言われることだがソースに書かれている以上のことはできない。
気を利かせることができない。
喉が渇いたから水を持ってきてくれ、と人間に頼めば適当なものが出てくるが、
コンピュータに頼むと、温度は何度なのかとか、運んでくる道程にある障害物の情報だとか、
そういうことをいちいち指し図しないとだめなのである。
これは先日行われた将棋24での将棋プログラムでもいえることで、
登場したプログラムは相手を詰ませるという目的に関しては、人間のプロ棋士並みに、
あるいはそれ以上にその計算力にものを言わせて達成できるのであるが、
相手を詰ませない「入玉」模様の将棋になった時に、「気を利かせる」ことができなかった。


コンピュータは強大な計算力と記憶力を持っている。
実はこういう「強大な計算力と記憶力」を有するものは中世にも、近代にもあったのである。
それは何かといえば、時折出現する「強大な計算力と記憶力」を持つ人間である。
今でいえば、高機能自閉症などにみられるサヴァン能力か何かなのだろうが、
そういう人間がごくたまに人間社会には出現するのである。
しかし、驚異的な計算能力を備えて、主に「数表作り」に従事していた。
彼らはコンピュータと同じく、計算、記憶以外の面では一般的な人間には大きく劣った。
ベックマンに言わせれば、彼らはコンピュータのように愚鈍であったという。
計算以外の、一般概念を扱うような数学は苦手であった。


人間社会には、あたかも数学を発展、文化を発展させるための今でいうコンピュータの役割をする、
希少種がごくまれに出現するようである。
コンピュータでは明確なアルゴリズムがあるものの、彼ら自身は、計算過程を他人に分かるように
説明することはできなかった。


πの歴史を振り返ると、時折アルキメデスニュートンオイラー、などの天才が生まれて、
数学の文化を広げるのである。
彼ら天才の生み出した概念を使い、常人が細かい作業をしたり、
あるいは時折人間の中でも希少種が現れて、常人がやりたがならない計算をする人間が生まれる。


そして数学という高度な文化というのは、衰退する時代もある。
暗黒時代、中世といわれる時代がそうであり、
ベックマンに言わせれば、専制政治が歴史上現れる時、間違いなく文化は衰退する。


あとは物理と数学の違いについて書いている文章があるので、備忘のために抜粋しておく。


「いったい、厳密に証明されていない、つまりある仮定から出発して隙のない論理で導かれたわけではないことを、
利用することが可能だろうか。
物理学では、答えは絶対にイエスである。水という水はすべて、100℃で沸騰すると私たちは主張する。
しかし、宇宙全体に存在する水の量と比べるならば、私たちが沸騰させた水の量などは全く問題にならない。
私たちの主張は、自然というものが上手くできているものだという「信仰」にもとづいているのだ。
エネルギーの保存則は実験だけで見いだされたものである。
すべての実験はこれを支持しているし、ひとつだってこれと矛盾する事実はない。
明日、だれかある科学者が、エネルギーが保存されていないという実験を発表しないという
論理的根拠は全くない。
しかし、自然が上手くできているという信仰は非常に根深いものだから、
おそらくその科学者は信用されないでおわるだけだろう。
物理学は帰納による科学である。
つまり、個々別々の実験をたくさん集めて、それを一般化することで一般法則を見つけ出すのである。


数学というゲームの規則はまた少し違う。
これは演繹による科学であって、ごく少ない一般的な仮定もしくは公理からたくさんの特殊な定理を
導き出すのである。
たとえば、ユーグリッド幾何学という大殿堂の構造は完全に演繹的である。」



電脳版 文章読本

電脳版 文章読本


あとは図書館をぷらぷら歩いていて、目についた本があったので、適当にぱらぱらと読んでみた。
文章読本」という題名で、谷崎潤一郎三島由紀夫も一冊だしている。
その名も「電脳文章読本」であるので、つい最近ニコニコ生放送で「攻殻機動隊」を見たのもあってか、
手に取ってみたのだが、これは間違いなく名前負けしている駄作である。


1995年に書かれた本だから、ワープロが一般に広がり始めてまだ間もない頃なのであろう。
有名な養老さんのお弟子さんで、タイプして書く文章と、昔の谷崎などが書いた文章とは
異質だから「電脳文章」と呼ぼうではないかという新しい言葉を提案しているが、
2011年現在、まったくと言っていいほど定着していない。


ただ、私自身も昔は手でノートに日記を書いていたのだが、このようにブログで日記を書くようになってから、
文章の質は変わった。
なにより手書きで文章を書くということは、速記でもできないかぎり時間がかかるのだが、
タイプの場合、随分と速いスピードで文章を書くことができる。
このワープロで文章を打ち始めたとき、著者はタイプする指に、頭のリズムが追いついてきたということを
感じたようである。誰でも現代ではそんなことを体感していると思うし、
別段誇張するようなことでもなかろう。


あとは最後に松本人志の笑いについて、無謀にも評論という言葉を用いて挑んでいるが、
明らかに失敗していて、彼が評論をすると全く面白くない代物になるし、
その上彼が抜粋してきたネタは、そもそも面白くない。
笑いについて、果敢にも文章で分け入るということをした評論家はいるにはいるけど、
大抵失敗している。


著者は、コンピュータ時代の「文章読本」を書いてやろうと意気込んで、この題名をつけたのだろうが、
器ではなかったようである。
数分で読んだので、時間を無断したということはないのだが、
90年代のコンピュータ時代の幕開けに書かれた匂いがする一冊であった。



それから、図書館で今日もフーリエ解析の問題を解いて、もっとペースを上げていかねばと思った次第。
勉強しようというテンションは上がってきてよいのだが、
一方でそのテンションの上昇に比例するように、将棋のレートは下がっていく。
なにか他のことに興味を持ち始めたら、とたんに弱くなったようである。
もとから弱かったが、さらに弱く。