律に学ぶ

「律」に学ぶ生き方の智慧 (新潮選書)

「律」に学ぶ生き方の智慧 (新潮選書)

昨日、大学の図書館で読了。


説教臭い本ではなくて、仏教修行者の団体「サンガ」を維持するために、
釈迦はどのように考え、その組織のルールを作ったかということについて書いてある。


仏教というのは、要するに「悟り」の状況を目指す宗教である。
悟ることができれば、この苦痛ばかりの世の中において楽に生きることができるらしい。
そのためには修行が必要である。


この本では、その修行については書いていない。
具体的にどうやれば悟りの境地に至るのか、という修行方法については書かれていない。
ただ、その悟るために仏教修行の団体はルールを持って運営されなければならない。
そのルール、すなわち「律」について詳しく書かれている。
宗教という特殊な組織の運営論である。


さて、釈迦は一人で王国を出てヒマラヤの奥地かどこかで悟りの境地に至ったわけであるが、
釈迦は自信の悟りの状態を皆に広めようと思った。
そこから仏教の始まりである。


釈迦は考えた。自分が悟りの境地に至るまでに、随分と時間がかかった。そして苦しかった。
だからその時間と苦労をなるべく少なくして、効率的に「悟り」の境地に至るように、
まず組織を作ろうということを考えた。
こうすれば組織内の人間同士で助け合って、そして修行に打ち込めばより効率的に悟りの境地に至る。
とりあえず組織を作ろうと思ったわけである。


さてその組織の運営はどうすればよいのか。
そもそもサンガは、仏教修行のための組織であり、生産のための組織ではない。
日々、食料を生産したり、お金をもうけたり、そういうことをするよりも「修行」をしなければならない。
しかし、そのためには働かないで、衣食住をなんとかしなければならない。
そのためにどうするかということを考えた。


サンガは、俗世に支えられて修業に明け暮れる組織にしようと考えた。
お布施である。世俗の人間に、衣食住を支えてもらう。


しかし、そんな理解ある人間ばかりではない。
例えばサンガ内の人間が、俗世に降りて行って悪さをするようなことがあれば、お布施もなくなってしまう。
仏教修行者を世俗の人間が信じられなくなるからである。
ろくでもない連中に、恵んでやることはない。


そこで、サンガの連中が守らなければならない「律」を作った。
主だった律は次の四つである。


①性交をしてはならない


②人を殺してはならない


③物を盗んではならない


④悟ってもないのに悟ったといってはならない


これが仏教の代表的な四つの大罪である。




働かないで、自分の好きなことをしていこうという組織が人間社会の中で存続していくためには、
ルールが必要なのである。
そのルールが守れなければ、自分の好きなことを無心に続けていくことはできない。


たとえば科学も同じである。
工学の分野は、産業と深く結び付いているので、一概にそうは言えないが、
例えば純粋数学や物理学の分野の研究者は、昔からいたわけであるが、
彼らにはパトロンがいた。
芸術家もそうである。
科学、宗教、芸術などは、パトロンがいたり、周囲に支えられたりして、
一心不乱にそれに打ち込むことにより、成熟していく文化なのである。


そういうわけで、釈迦が考えたような「律」のルールは、自分の好きなことばかりして生きていきたい、
という人間の願いをかなえるシステムである、というようなことが書かれていた。



さて、宗教といえばオウム真理教が悪い意味で有名である。
彼らの組織運営のシステムはどうなっていたか。
仏教はお布施によって支えられ、そしてそのお布施を貰い続けるためにルールが拵えてあった。
このコテコテの現代社会、資本主義社会に生まれた新興宗教は、
この社会の中で修行し、悟りまで至るために、どのようなシステム、ルールを作り上げたか。


そもそも浅原は最後には悟りなどはどうでもよく、自らの権力欲のために組織を作っていたようである。
オウム真理教での「出家」というのは、家財をすべてお布施としてオウム真理教に寄付して、
その組織の中で一生暮らしなさい、という意味であったらしい。
信者に出家させることができれば、それは教団の財源になった。
また、ちょぼちょぼ商売などを修行という名目でしていた。


仏教の出家は違う。
家財は別段どうしようと関係ない。好きにしなさい、である。



芸術家や、科学者や、宗教家というのは、その対象に対し純粋に生きたいというある種我儘な人種である。
そういう人間は、誰かに支えてもらう必要がある。
そのために、古来より芸術家も科学者も宗教家も、何らかの工夫をしてきたわけである。
好き勝手やっていればよいわけではない。
ルールがあれば、対象に純粋に取り組むために、それを守った。
それがきちんとした芸術家、科学者、宗教家であった。


要するに、何かに対して純粋に生きたいなら、ルールを作ってルールを守る必要があるし、
そのルールもよく考えなければならない。
やりたいことをやって生活するためには、そういうことがどう考えても必要不可欠なのである、
というお話である。
それができなければ、口をつぐんで目をつぶり、耳をふさいで生活するしかありません。



少なくとも対象に純粋でなければ、自分を活かすような生き方はできない。
私も何かに純粋になることから始めねばと思った。