昔やっていたスポーツの県協会のページを見る。
大会記録をクリックして、試合結果を見る。
驚くことに、私よりもはるかに才能がなかった人間が、私よりうまくなっている。
そして良い結果を残している。


私は人間関係のトラブルで、そのスポーツをやめたのだが、
そうはいっても自分でもそれなりに努力して、新人にしては驚くべき結果を叩きだしていた。
ただ、そういう自分に慢心して、尊大に振る舞っていたかもしれない。


私よりも才能のなかった人間は、長い時間をそのスポーツにささげ、
さらには周囲との関係を、その素直な性格で良好なものにしていた。
ふと思った。
そういう人間にこそ運というのが巡ってくる。


そもそも私が結果を出していた頃にしても、明らかに自分が持つ知性以上、
運動能力以上の結果を出していた。
それは間違いなく私を支えてくれたコーチのおかげであった。
しかし、それまでしてきたスポーツで、これといって成果がなかった私は、
この成果を自分の才能、自分の知性、自分の運動能力によるものだと思いたかった。
そうして私は何故か尊大になっていった。


こういう人間に、勝負の世界の運は回ってこない。
いくつかスポーツをやってきたが、トップ選手になる人間の性格は、すべからく謙虚である。
もちろん尊大で、例えば朝青龍のようなパフォーマンスの過ぎる選手もいる。
とても上手い。真似できないし、才能がある。
でもそれはどこか切れ味が良過ぎるのである。


朝青龍もそうであるが、そういう才能もあり、テクニックもあり、頭も切れるという選手は、
なぜか長続きしないのである。
どういったわけかやめていくし(主に周囲との軋轢である)、選手としての寿命は短い。


ただ、周囲の人間よりはるかに良い結果を出している状態で、
周囲に対して尊大にならないで、さらには好かれるなどというのはよほど良い性格でなければできない。
そもそも小物の私にはそのようなことができなかった。
自分自身の存在意義として、私はこのスポーツが人並み以上できるのだ、というのを
心が弱い私は一面に押し出したくなる。
そういう人間は嫌われて、いつしかやめていくことになるのだが。


かりに、そういう人間が辞めないとしても、いつの間にか結果が出なくなっていく。
まるで何かに取りつかれたように、不運になっていく。
一方で、周りから好かれる、そして才能のある人間は、どんどん結果が出ていく。
あいつは人当たりが良いだけじゃないかとひがんだりすると、
さらに結果は出なくなっていく。
心が汚い状態では、あまりパフォーマンスは向上しないらしい。


結局のところ、周囲にどれだけ応援してもらえる環境を作るか、である。
それが自然とできる人間がいる。
そういう人間は、どんなに劣悪な環境で才能が押しつぶされていようと、
いつの間にか良い方向へ向かっていく。
そして長い時間をかけても、そのうちに運が訪れて、花は開く。


もちろん才能があって、人からも好かれて、運も持ち合わせているという、文句のつけようのない人間も
確かにこの世には実在しているが、ほんの一握りの人間である。
多くの凡人は、そういう人間に対して、意識的に対抗するのだが、
たとえば対人関係を意識的に処理したとして、天性の人気者に勝てるはずもない。
そこにいくら市販のあやしい自己啓発本から学んだ対人テクニックを使っても、無駄である。
そういう作為的なものは、人に見抜かれるのが世の常である。


「自己-対象」というのが心理学であるが、凄い人間は、どんな対象でも飲みこんでいくのである。
それはそれはびっくりするぐらい飲みこんでいく。
いろんな人間からいろいろなことを吸収していく。


しかし、そうでない人間もいる。毛嫌いがひどくて、人を容易に寄せ付けないタイプの人間である。
こういう人間は、そもそも吸収が悪いので、世俗的な運というものが巡ってくることはあまりなしに、
強い自意識にもかかわらず、幸の薄い人生を歩みがちである。
自意識が強いうえに、薄幸なのであるから、その痛みたるやすさまじいものである。
すなわち私のことであるが・・・。


いい加減気付いているのは、余計なプライドなど脱ぎ捨てて、
素直になったほうが幸せになれる、ということである。
しかし、一方で、余計なプライドを捨てて、幸せになってもなんの面白みもないというひねた自分もいる。


とにかく運というものは、まわってきやすい性格と、そうでない性格があって、
さらにそれが人生を大きく左右するということである。



基本的に、「すべて私ひとりの才能によるものである」とか
「すべて私ひとりがやった」ということはない。
多くの場合、どんなに才能があろうが、人から支えられていることは間違いなく、
上手くいっている場合は、意識も何もしていないが、無意識に人間関係のネットワーク、
すなわちシステムによって支えられている。
しかし、その上手くいっているということに慢心し、自我が強まってくると、
システムに愛想を尽かされてほっぽり出される。
なんとなく結果が出なくなるのだが、最初はおかしいなとくらいしか思わない。
そのうちに怪我などの不運なことが重なり、競技をやめていく。


スポーツで成果を出したり、仕事で成果を出したりというのは、もちろん具体的な練習方法や、
心がけによって左右される部分もあるのだが、
上に述べたようなことも、それ以上に大きな部分を占めている。
頭が馬鹿であろうが、周囲から好かれれば、それなりの結果がついてきたりもするのである。
かといって意識的に何らかのテクニックを使って、周囲から好かれるということはなかなか難しい。