「社会的・うつ病」の治し方

「社会的うつ病」の治し方―人間関係をどう見直すか (新潮選書)

「社会的うつ病」の治し方―人間関係をどう見直すか (新潮選書)


どうにもまた気分が塞ぎがちだし、人生も上手くいかないし、無気力状態が続くので、
実家のブックセンターにて本書を購入した。
大学にも全く通えていないので、この本を読んでみた。


この本を読むこと自体が、なんだか面倒で、煙草をすぱすぱ吸いながらでないと読み進めることができない。
本を煙草を吸いながらでしか読み進めることができない精神状態というのは、実はあまりよくないのかもしれない。


書いてあることは、「新型鬱」についてのお話である。
近年増えてきた「旧型鬱」とは違う、新型の鬱について書いてある。
旧型は真面目人間がなる鬱病であったのだが、この新型ははたから見たら不真面目で怠け者なのである。
先天的な怠け者もいるとは思うのだが、現代では「ひきこもり」は病気のように扱われる。
鬱々とひきこもり生活を送っているなら、それは鬱病かもしれない、ということである。


新型鬱の社会背景から書いてある。
新型鬱はポストモダン的な鬱病でもあるらしい。
ポストモダン以来「大きな物語」が崩壊し、「小さな物語」に人々は依存するようになった。
例えば、操作主義だとか、自己啓発だとか、そんなものです。
斎藤氏のいう心理学化もその一つ。
心理学ブームというのも「大きな物語」崩壊後にやってきた「小さな物語」。


あとは少し前まで結構はしゃいでた(いまもはしゃいでいるかもしれないが)
勝間氏なんかが代表的である操作主義も「小さな物語」らしい。
いまNHKでもアニメをやっていたりするマネージメントも操作主義である。
すべてがすべて操作できるものだと思っている。
人の心も、バイタリティーもすべてコントロールできると思っている。
実際にはそれができない人間の方が多いと思うのだが、「それは自己管理が出来ていないからだ」と
いう批判をずばずばする方も操作主義傾向にある。


とはいっても、まったく自己管理できないというのも大問題なわけであり、
どこまでいけば操作主義なのか。
「軽い躁状態」を持続させて仕事をバリバリしなさい、というレベルになったら操作主義なのではないか。


というわけで、「新型鬱」についての社会背景についてまず書かれていて、
それから「自己愛」についても論じられている。


自己愛というのは、斎藤氏曰く「自己愛システム」というものがあって、
無気力だったり、引きこもりだったり、社会に適応できなかったりする人間は、
この「自己愛システム」に異常をきたしているので、動作が不安定なのだという。
越自我が壊れていて(ひどくサディスティック)、自分も傷つけるし、他人も傷つける。
そうやってどんどん他人からも離れていき、挙句の果て気に自分自身も阻害してしまう。


またこの「新型鬱」というのは、この自己愛システムの異常によって、
「プライドは高いが、自信はない」という状態になるようである。
・・・自分のことを言われているようで、耳が痛い。


あとは「気分循環症」や「解離性人格障害」などの精神の病について説明されている。
まず「気分循環症」というのは、仕事になると鬱になり、遊びになると元気になるというやつである。
誰しもそうであろうが、これは病気のようである。
また「解離性人格障害」というのは、物事に白か黒かでしか見ることができないという特性がある。
ある人がいて、その人が仲間か、あるいは敵かという二つにしか分類できない。
中間というのがない。
精神医学的に「分裂」というのはそういう状態を指すらしい。


それで「気分循環症」だとか「解離性人格障害」などは、その傾向があるという人間は結構いるかもしれないが、私もそういう傾向はあると自分でも思った。
あとは今の私の生活と、その気分というのは、あまり健全なものではないから、病院に行った方が
いいかもしれないと思い始めた。
大学に通えていないというのは、確かに異常だし、学習意欲というのもわかないのは鬱なのかもしれない。
今週中に病院に行ってみようと考えた。
夜もろくに眠ることができないし、気分もそんなにいい具合ではない。


あとはネトゲ廃人についても語られていた。
ネトゲではないが、私もネット将棋を今年の2月頃から初めてはまっているが、
一種のネトゲ廃人なのかもしれない。
数時間は費やしている。
穴熊の使い方は上手くなったが・・・。


こういう本を読むと、自分はもしかしたら異常かもしれないなどと思う。
自分の精神を改めて見直すからである。
例えば家族と仲が悪い場合、家族に対して被害妄想などというものを抱こうものなら、
これは「新型鬱」のひとつの症状のようである。
そんなの多かれ少なかれ、多くの人間が感じているのではないかというシニカルな私の見方それ自体が、
実はやんだものの見方なのかもしれないと思ったりもする。


取り合えず「ひきこもり」で「気分が冴えない」し、「社会生活に適応していない」ということで、
病院に行って薬をもらってこよう。
昔、一時期通ったことがあるのだが、確かにあの時は薬で大分楽になったように思う。
でも向精神薬を飲むのは、なんだか非常に怖いのである。
それこそ化学物質で脳の中の状態を「操作」して、後に後遺症が出ないはずがないという恐怖感である。
物事に代償というのは付き物だから。


それから「孤独」についても書かれていた。
「孤独」とは古来から偉大な人間はそれを味方につけて、大きな成果を上げる。
けれど、多くの凡人はその「孤独」に押しつぶされる。
私もその中の一人なのかもしれない。「孤独に押しつぶされている」状態なのかもしれない。


孤独の何が悪いかといえば、ラカンの「他者の欲望」という言葉通りに、
私たちの欲望というのは、「自分だけの欲望」ではない。
多くの個人が集まった集合体のなかで「欲望」が生まれるわけで、
そしてその「欲望」をかなえようとする「意欲」というのが芽生えて、
初めて「社会活動」になるのだが、「孤独」は他者との接触がないために、
「欲望」というのがなくなる。
坊さんなどは我欲として、「欲望」を捨てるのだが、一般社会で生きている人間が
この「欲望」を捨てたら社会が成り立たなくなるようである。
例えば引きこもりの人間は、お金をたくさん使わないらしい。