the rite


今日は現実逃避のために映画を見てきた。
テレビよりパソコンの方がモニターが大きいし、音の環境もパソコンのほうが整っているので
パソコンで映画を見たりもするのだが、やはり映画館で見るのは格別である。
スクリーンと音響以外の情報がすべて遮断されているから、物語の中にのめり込める。
映画館は自分の人生から一時的にでも外れることができるために、やはり非日常が味わえる。
その非日常を味わう必要性というのは、歳をとればとるほど大切なものだと思い始めた。


そしてこのthe rite。
出来は普通かなぁ。
三月は見たい映画がなかったので、映画館にはいかなかったが、二月は「悪人」を見に行って以来である。
一か月に一度は映画を見に行きたいと思ってはいるのだが、
今は戦隊物だとか、ポケモンだとか、そんなものばかりで田舎の映画館ではろくなのを上映していない。
映画を映画館で見たいという気持ちは強いのだが、肝心の見たい映画がないのである。
アンソニー・ホプキンス、ホラー、エクソシストと来たので、行ってもいいかなぁという気持ちになった。
ハンニバルのあのしっとりとした映画全体の雰囲気は嫌いではない。


以下ネタばれを気にしないで、感想を書こう。


感想と言っても大した感想のようなものは正直ない。
「悪人」なんかは地方の閉鎖性というものを描いたという一点において、
それについてかなり共感したのだが、今回は共感するものがそれほどない。
私はキリスト教徒ではない。


祝福されたものと、忌むべきものの二つでこの世はなっていて、忌むべきものは悪魔の階層に近いものらしい。
葬儀屋の息子はdoubt(信仰を疑う者)であるのだが、これが最後に悪魔の存在を信じ、
そして主を信じるに至り、さらにはエクソシストの職を受け入れるまでになる。
作中にまず出てくるのは、悪魔に取りつかれた16歳の娘である。
この娘は父親に犯され、妊娠しているようである。
そして彼女は悪魔に取りつかれているのでルーカス神父(アンソニーホプキンス)に悪魔払いをしてもらう。


普通は実の父親に犯されたなどということがあれば、精神に異常をきたすというのも分かるもので、
幻聴、幻覚、精神錯乱などの症状が出てもおかしくはない。
それでdoubtは、彼女の症例は精神異常からくるものではないか、
精神科医に見せたのかとルーカス神父に問う。
ルーカス神父曰く、「抗鬱剤も鎮静剤もなにもかも全く効果がない」ということらしい。
だから「悪魔の仕業と見て悪魔払いをしている」と。
当然doubtは悪魔の存在など信じてはいないから、この神父がインチキ野郎だと疑う。


でも身の回りに、父親の死や悪魔に関する幻覚を見たりして、最後には悪魔の存在を信じ、
主を信じ、エクソシストになるというお話なのだが、これが現実のお話ということで、
実際にルーカス教授もマイケル君も存在しているらしい。
そして実際にマイケルは米国で今もエクソシストをして、ルーカスもイタリアでエクソシストをしている。


現行の医学が通用しないから、すなわち悪魔の仕業という考え方はどう考えても強引過ぎるのだが、
それをいちいち言いだすと映画自体が成り立たなくなってしまうので、
つまりは現行の医学が通用しないのを描きつつ、
(現行の医学を越える範囲のものに対しての医者の無能ぶりはそこはかとなく強調されている)
それが悪魔に属する現象だということを強調して描かないと、
真実のお話だという触れ込みに反してしまうので、随分苦心された点だとは思うのだが、
今思えば、悪魔の描き方というのは、「コンスタンティン」というキアヌ・リーブス主演の悪魔に取りつかれた
人間とメイクはほとんど同じように見えて、電話での地獄の存在の強調だとか、
しまいには赤い目のロバなども出てきたりで、その辺は少しばかり表現の稚拙さというのが目立ったかもしれない。
真実の物語というのなら、電話で死んだはずの父親の声が聞こえるとか、赤い目のロバの幻覚だとか、
あの辺は自重したらよい。
肉親が死ぬという予言程度ならまだ許すけれど、あの辺に行くともはやオカルトの世界に入って、
オカルトのお話としてしか見ることができなくなる。
そうではなくて、もっとリアリティーの範囲で描いて、悪魔を直接的に描かない仕方でじわじわと悪魔的なものを信じさせていくような高等技術が贅沢を言えば欲しかった。
あれでは老婆が子供を脅す時に使う、「怖い話」とほとんど同じである。


アンソニー・ホプキンスの演技はいつも通りよくて、神父やらエクソシストは凄く似合うのだが、
悪魔がとりついた人間をあまりにも直接的に描いたり、ろうそくが悪魔の気合で消えてみたりは、
あんまり表現としては使い古され過ぎで、稚拙なのではないかと思う。


ローマでカトリックエクソシスト養成の講座を開いているなら、その講座の講義の模様なんかも
もっと描いてみればよかったのではないでしょうか。
現行の科学で説明しきれない人間の奇妙な動きなんて、この世にはたくさんあるはずでしょうし、
さらには、悪魔的なものと単純な精神的病の境は、それこそ描ききれないものだろうけれど、
その境目で悩むリアルなエクソシストを描いても悪くない。
宗教の守備範囲であるものはこの世の中には間違いなくあるのだが、the riteでは幻覚を信じる狂信者が
「主に使えるもの」であるというようなものの見方もできてしまう。


そもそも「悪魔的なもの」というのをかっちりと描き過ぎなのである。
日常に潜む「忌むべきもの」だとか「邪悪なもの」というのは、もっと輪郭がぼやけていて、
だからこそ人はそれを捕まえることができないし、言葉で表現することもままならない。
それによってより一層怖さというものが強調されるのだと思うが、西洋の悪魔はあまりにもでしゃばり過ぎ。
こんなことを書くと私もとりつかれるかもしれないが(笑)。


作品全体としては、ローマとか、キリスト教だとか、司祭、古い街並みなどを味わえるので、
映画館で映画を見ている雰囲気は十分楽しめる。



それで帰りに本屋に行って帰ってきた。
本屋では新刊などを見たが大して目につく本はなかった。
最近は文庫だとか新書だとかで読みたいと思う本が昔より少なくなったと思う。


「羽生の頭脳」の横歩取りについての棋書が、将棋コーナーに置いてあったが、
これも多分買っても読まないだろうなぁと思いつつ、買わないことにした。
米原万里氏のエッセイの文庫を買い、書店を出た。


佐藤氏の「石田流破り」もあったのだが、ぱらーっとみて居飛車穴熊を使ってなかったし、
銀冠の形でもなかったので、やめた。
確かに石田流は飛車が回ってくるので、銀冠とか居飛車穴熊で対するのは大変なのだろうが、
あの囲いは角が使いにくいんだ・・・。


今日はフリー対局で、私が嫌いな石田流をレート350程度の人間にやってみた。
見よう見まねだから今いる級の人間にはまったく通用しない、「見よう見まね石田流」であるが、
普通に石田流に付き合ってくれた。私の石田流に組むまでの不器用な手つきを咎めないで、じっくりと。
相手は12級とかその辺の方ですが、石田流をしてみると、確かに角と飛車が上手いこと捌ける。
まさに魔法の駒組みである、多分石田流を使って不思議と勝っている人もいることだろう。
いつの間にか捌けているのだから・・・。
でも案外自分でやってみると、あんなに飛車を狭い所に押しとどめて不安である。
石田流をやり慣れている人は、そんなことを感じることはないのだろうが・・・。


ただ、石田流に組んで、そのあと自軍を銀冠に組むと安心感は半端ない。
綺麗な石田流に組めて、その上守備は銀冠なのだから安心して中盤戦をこなせる。
この安心感が振り飛車かぁと思いつつ、今度は同じようなレートの人間相手にフリー対局で
石田流をしたのだが、今度は「相振り飛車」に。
振り飛車など無論やったことがないので、見事にひねられた。
振り飛車で指すと相振りということが起こるのか。
振り飛車で指すなら相振りの将棋に勝てないとレートは上がらないのだろう。
振り飛車で指すなら、対居飛車戦と対振り飛車戦。この二つなのだろう。
しかし居飛車で指すなら、対振り飛車戦と対居飛車戦である。
そしてこの対居飛車戦は「横歩取り」やら「角換わり」やら「矢倉」など細かく種類があり、
それぞれが全く違う将棋の表情を見せるために、居飛車で指すのは大変なのだろう。


今のところ私が出来るのは・・・、「対振り飛車」「角換わり」「矢倉」「横歩取り」の
いずれもほとんど知らない。形だけ知っているようなものである。
「羽生の頭脳」は難しいらしいけど、「角換わり」「横歩取り」で何かを読みたいし、
「対振り飛車」は渡辺氏の「四間飛車破り」の急戦編と居飛車穴熊編、
あとは石田流破りで佐藤氏の本を読んだら、上級へ行けるかもしれない。
一応出題範囲はぱーっとやってないと上級への道は険しいかもしれないが、
そうは思いつつ、やっていない。


明日は履修登録と朝からの講義に行くために大学へ。