なんなのだろうと考えさせられる日

今日は朝からDrの審査があり、なぜだかわからんけど研究室全員がそれを聞きに行く。
おまけにOBも来る。
なんだか同窓会みたいな雰囲気になっている。
・・・苦手だ、こういう雰囲気。
かつて所属していた部活でも、OB会になんていっていない。
もちろんリア充以外、入場禁止制限はあるのだけど。


それで、とてつもなく仲がよさそうだし、生き生きしている私と同い歳くらいのOBを見ていると悲しくなった。
一体なんなのだろう。それから数年後、私がこの研究室を卒業するとして、果たしてこれに来るだろうか、
来れるだろうか、という自問。
高校などは友人ゼロだった私は、もちろん同窓会にはいかない。
それから部活の同窓会にもいかない。
そこにくると研究室のそれもいかないであろう。


なんというか、自分の人生を見返すと、「天涯孤独」といっても過言ではないような気がした。
一応、大学には数人、すでに卒業してしまったが、いつかどこかでまた飲み会でもしよう、というやつらがギリギリ存在しているが、
少なくともその前までは全く続いている人間関係はないのである。
それでもなにやら気の利く人間というのは、高校時代も、大学時代も、もっと言えば幼少時から、「戻る場所」とか「地元」がある。
でも転校も多ければ、性格も明るくない私には、そういうものが存在していない。
この見事さには自分でも驚くし、周りの人間と接していた、たまに「地元で同窓会」などと聞くと、この人にもそういう場所があるのか、
とうらやましくなったりするのだけど、一方でそれがない自分というのを考えたりもする。


昔のように、「私は人に嫌われているのかもしれない」だとかそういう強迫的な気持ちはなくなったし、
だから人に好かれようと人並み以上に考えたりは、高校時代を最後にしなくなったわけで、随分、他人と自然に接することが
できるようになった今日このころであるが、しかしながら今日の研究室の雰囲気の苦手さというのは、すさまじかった。
こういうのに私はアレルギーがあるらしい。
なんだか、最近は自分の心が不安定になることがよくある。
その集まりの後、私はワイワイと騒がしい研究室を後にして、風呂屋に向かった。
風呂につかりながら、最近の出来事についていろいろ回想してみたけど、なぜだか随分暗い気持ちになるのである。
なんというのだろう、自分には、そういう場所を作ったり、息の長い人間関係を作ったりする能力が欠けている。
そういうものを「社会性」というのなら、私にはそれが間違いなくかけている。
昔からそうだったし、それがかえている私は「人間」ではないのかもしれないとも思う。
こんな「友達いないコンプレックス」なんてずっと昔に克服したと思ったのに、今日はセンチメンタルな高校生の時の気分が、
なぜだか私の脳髄に再現されたりしたのである。
いつもなら風呂屋に行って、サウナにでも入れば、大抵は機嫌も上向くのであるが、
今日は自分の生き方そのものについて凝視したために、どうにも気持ちの転換はうまくいかなかった。


別に無理してリア充を追いかける必要は全くないし、無理すればするほどそういうものは解決には向かわないということは、
高校時代の私の苦悩を振り返ればわかることである。
自分には、何かが他人より決定的に足りていて、さらには人間社会から利益を得られない、となると性格もゆがむし良いことはないが、
こういやって人が集まるところで、「わいわいと景気よく」やっていく人たちっていうのは、その蚊帳の外にいる人間には疎ましいが、
自然と生きていても楽しくなるだろうし、しがらみはあろうけれど世を渡っていくのは楽になるだろう。
特に「強烈な自我」というのを持っていると、そういうところにも入っていけないし、入ろうと努力してもリジェクトされるし、
普段から周りの人間を大切にしておく、とか、物事にまじめに取り組んでおく、とかそういう「人の道からはみ出さない地道な努力」
というのがいるというのはわかるのではある。
昔のように、いちどその「人間村」から外れると、どいつもこいつも憎くなって、その「人間村」に住んでいるすべての人間が
憎くなったりもしたわけであるけれど、私も大人になったのか、そういう気持ちはあるにはあるが、客観視はできる。
自分も入りたいくせに「何を嬉しそうにやっているのだ」となり、余計に意固地になったりは年を取ったからもうしない。
でも結局のところ、少なくともこの社会で生きていくためには、飯を食べていくためには、
一旦、人間村の外に出て、その不便さを味わって、屈辱であったり歯痒かったりしながらも、再びそこを志向することが、
必要だったりもするのである。
私も大学時代の前半はほとんどの人間を寄せ付けなかったけど、(向こうも寄ってこなかったけれど)
後半には、ほかの人間の情報を大いに活用して、適当にやり過ごした。
これというのは、「大学というのは所詮、要領とか人間関係」とこき下ろしたくなる気持ちを呼び覚ますわけだけど、
「学問」といっても宙に浮いているわけではないし、すべては人と人との間で行われる営みなわけで、
かりにサッカーというスポーツがこの世のだれも知れないとして、天才プレーヤがいても無意味であるし、
万物の理論を発見したと言いながらも、自分以外の人間が死んでしまっていたら、価値も何もなくなるわけで、
「ひどく孤独で不器用な自分を受け入れてくれる何かがあるはず」と思いながら、「人間社会の営み」のおもちゃ箱を漁っても、
「そんなものはどこにもない」のである。
自然の中には人間を無条件に受け入れてくれるような、仏様はいるかもしれないけど、少なくとも人間社会の中にはそれはない。
だから歯痒いけど、「人間村」の中で生きていくための努力というのをしなければ仕方がないのである。
それで、そういう数値化されない何か、というのが、この人間社会においては「就職活動」の時期になんかに現れて、
人は多分「階級」と「階層」の違いだとか、「文化資本」の違いだとか、目には見えないけれどあってしまって、
それは小学校のころからあり、しかしながら努力では埋められようのないもの、最初には「なんで自分は承認されないのか」
という疑問を掻き立てるもの、で選別されたりもするのだろう。
「就職活動」ではそこまでふるいにかけられないかもしれないけど、それは年を取るにつれより強烈に、そして無自覚に働く。
それでいつの間にか自分は「この程度のものだ」といいくらいのところに、歯車としてガコっとはまる。
多分そのころには、「なぜ自分がこの程度のところに?」などと若いことは思わないで、自然にはまることであろう。


おおよそだけど、この辺りのことを感じたし、私が今している努力だって「人間村」で生きていくための努力である。
歯痒いけど、もうそろそろその歯痒いという気持ちもなくなる。

しかし、階層社会とはいえ、一定の流動性は担保されており、当たり前のことだが、そのパイプラインはただ「学ぶことができる人間」にだけ開かれているのである。
「私には学ぶべきことはない」と宣言してしまったものは、まさにその宣言によって社会の流動性を停止させ、社会の階層化と、階層下位への位置づけをすすんで受け入れることになる。
「学ぶもの」にとって社会は流動的であり、「学ぶことを拒否するもの」にとって社会は停滞的である。
「学ぶことを拒否するもの」が増えるほどに社会は流動性を失って、こわばり、石化する。


どこからかの引用であるが、多分この辺りのことなのだろう。
最近の自分の迷走、石化もこの辺りからきている。


「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。
「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。
これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。
けれども、「自分らしさ」イデオロギーはこの言葉を禁句にする。

この辺りも最近の自分を分析する上で必要。