ぼちぼち乗ってきた

今日は毎週の指導教官によるミーティングがあり、私は院試の勉強のために何も報告することはないのだが、
他の人々の報告を聞くのは、ほんの少しだけ楽しみのために出席。
毎回、ブログのネタになる話もあったりする。


今日は、M1の大学院生が「このデータを解析することで、何を言えるのかよくわからない」といい、
適当にデータを解析したものを報告したら、ボスが声を荒げていた。
「国立大学の研究の8割はほとんど無意味に終わるものである。研究というのはそもそもそういうものである。
初めから無意味と決めつけてデータをろくに解析もしないのは、姿が違うだろう。
そういうことは、少なくともきっちりデータを解析し終えた後に言うべきものである」
なるほどなぁ、と思いつつ、さらに続く。
「たとえば今のニュース番組で古館がやっている番組では、毎年これだけのお金が無意味に研究費として何の成果もなく、
浪費されています、こんな無駄があってよいでしょうか、というようなことをいうけれど、
蕩尽の末にほんの少しだけ成功がある研究というのもの本質がわかっていない」
というようなことも言っていた。
印象的には、学者の方々はよくそういうことを言っていると思うけれど、そもそも庶民感覚で「研究」というのは、
なにやら高尚でよくわからないもの、であるために、古館のような意見が大衆を刺激するのは無理もないことだとは思う。
別にどちらが正しいとは思わないけど、文化というのは蕩尽の果てに発展するものだとは思う。
経済の言葉で文化を語っては、文化それ自体がやせ細るのは当たり前だろうし、そもそも同列なものではないけれど、
たまたま時代により二つが強く結びついているために、こんなことが起こる。


あとは、そのミーティングの後に、「救う神」と久々に話した。煙草談義である。
師は毎回ミーティングの後に喫煙所に行くらしく、今度から私もご一緒することにしよう。
煙草を吸っていてよいのは、こういう時間があるためである。
私は今までの短い研究室生活の中で疑問に思ったこと、どうしてよいかわからなかったこと、についていろいろ聞いてみた。
しばらくあまり話していなかったので、聞きたいことがたくさんあったのである。
毎週、このミーティング後の煙草の時間にいろいろ聞き出そうと思っている。
師も忙しいから、私の相手に時間を割ける時間なんて喫煙時間くらいしかないわけだけれど、
しかしそれでもふと疑問に思ったことを素直に聞ける相手というのは、かけがえのない人物だと思う。


あとは、院試の勉強もボチボチ軌道に乗りそうである。


今朝は、愛らしい赤ん坊を抱いている夢をみた。夢占いをみると、吉兆だという。
今日はなかなかご機嫌に調子よく過ごすことができた。これから先もこういう日が続いていけばよい。