ボランティア、学期を振り返る

実験関連で助けてもらった知り合いに、電子回路を教えてほしいと頼まれたので約束のファミレスへ
今日の夕方に出頭。
それまでは、最近では気が休まることがなかったために、随分睡眠を取って、昼頃に起きて、
それから15時ころに大盛りラーメン定食を近場のラーメン屋さんで食して、
家でネットを見ながらだらだら生活し、ファミレスへ出頭したわけである。


ファミレスでは、演算回路とボード線図についての解法を小一時間レクチャーし、
あとは交流負荷直線だの直流負荷直線だの、書き方について教えた。
教科書ではなくて、ノートの演習問題を中心に勉強したらどうか、という提案をしたのだが、
10ページ一時間で読めるから、ということで・・・。
いくら10ページ一時間で読めても、解法が自分の頭の中で自由にならないとテストはできないと思うのだが、
思うようにやればよいと思ったのでそれ以上は言わなかった。
時間かかるしなぁ。


一応、テストの大きな大問は三題あるうちの、一題については私が徹底的にレクチャーし得点源とさせたので、
あとの二題についてはノートを貸すから自分で勉強してほしいと伝えた。
今の要領でもう二題も勉強したら潰せると・・・。
テストの問題にすべて解答を付けてほしかったようだけど、もう数年前に取った授業なので忘れているし、
面倒くさかったので、あとはファミレスの雑炊を食べて返ってきた。
バイト代のようなものである。


私の方はといえば、あとは顔見知りの実験教官のレポートを二つほど完成させれば今学期は終わりであるが、
最後に進級要件を満たしているかというあれがあって、今でも進級か退学かはっきり分からないわけであるが、
一体どうなっているのだろうか。テストもすべてできたと思うのだが・・・。
就職活動もはっきり進退というのが決まらないとやる気でないし、どうしよう(笑)。
知り合いの研究室に行ったら大学院まで遊んでもいいと思うのだが、英語でも勉強してましょうかね。
smart.fmは無料で一ヶ月間使い放題のようだし、あとはtoeicの過去問を繰り返しやって・・・、などと考えるけど、
一体どうしたものでしょうか。
なんと宙ぶらりんな状態で、普通は就職するのか進学するのか、この時期には決めているわけだけど、
私はといえば、へんてこな状態なのである。そもそもがぎりぎりでやっているのでいたしかたないのではあるが。


まだ実験レポートが二つほど残っているが、あとは消化試合をするようなものなので、今学期を軽く振り返ってみよう。
10月は京都旅行などに行った。
学校に行くのは、前期は全く行っていなかったためにかなり精神的にきつかった。
最初は授業をかなり休んだものだと思われる。一番欠席数が多かったのは10月だろうと思う。
11月はぼちぼち学校に行き始めた。
12月は実験レポートに手を加え始めた。
多分最初の実験レポートができたのは12月の初めだったのではないかと思う。
それから実験レポートを溜めこんだまま、冬休みを迎えた。
冬休みに実験レポートはすべて書けばよいと踏んでいたのだが、まったくレポートなどしないでぐだぐだと過ごした。
また祖父の葬式もあった。年末だったので、本当になんとも言えない気分で、正月を迎えた。
1月はレポートを書きつつ、それでもまだだらだらしていた。
面倒くさかったのだろう。毎日映画など見たり、酒も飲んで、まだまだ余裕をかましていた。
テスト前になると、まだ実験レポートができていないことに焦りを感じ始めた。
実験の一科目についてはなんとかした。もう一科目残っていたが、この時点でもう一科目が手つかずというのは、
もはや退学を覚悟し始めた。この辺りの精神状態というのは、今こうやって気楽に振り返っているが、なかなかやばかった。
家で身体が動かないで、布団の中にもぐりこみ、現実逃避していた。
その後、私の救う神である教官と連絡を取り、それから実験でできた友人の協力を経て、実験科目のもう一科目をなんとかした。
他の受験科目は、悲愴な精神状態でどれも少ししか時間をかけることはできなかったが、なんとかなったとは思う。
あれだけ精神力を消耗する惨事となったのは、すべて実験レポート手つかずの怠慢とか、鉄仮面教官に怠慢を指摘されて、
「舐めているのか」的な脅しをかけられたせいであろう。精神的に追い詰められたのは、明らかに実験科目のおかげだけど、
毎年、最後の実験科目が丸々残っていて、レポート書きながら試験を受けないといけないというあの重圧に私が
耐えられなかった、というのが何度も留年した一番の理由であり、
今年は終盤力が大切と言いながら、ほとんど「泥沼流」もいいところなぎりぎりのぎりぎりを通過する終盤力で、
「もしかしたら進級してるかもな」という状況まで持ってきた。


学んだことといえば、電磁波の波動方程式を授業で教わったことと、あとはtexのコマンドを多少覚えたこと、
それから実験レポートの体裁というのを多少学んだ。
グラフはこう書くだとか・・・。
ペイントソフトで画像を多少加工してワードに張りつけたりがどんなに文書作成に有効なのかも分かった。
レポートを書くということについては、計15個ほど書いたので多少は慣れたつもり。
あれは内容というよりも、体裁だとか技術それ自体を養う科目なのだろう。
実際、実験の教官は体裁のことはやかましく言うのだが、内容については私以外の学生にもそれほど厳しいことは言っていない。


それでも学科の中で友人ができたというのは初めてだし、協力すればあれだけ学生生活というのが楽になるのかと思ったわけだけど、
昔は学科の人間が大嫌いであったので、私の力が抜けたころに友人ができるというのは、必然的な出来事なのだろう。
昔は本当に大学が嫌いで、負のオーラというのを出しまくっていただろうしねぇ。
本当に柔らかで大らかな人間になったと思うし、これからも柔らかで大らかに生きていくだろう。
無駄なプライドで遠回りなんて多分しないような人間になるけど、つまらない人間になったものである。
そういう「つまらない人間」になりたくなかったので、他の道を探して何度も留年したわけだし、
おまけに何か目途を付けないと、進級しようという気持ちにもならなかったので、
何もない状態で、ほとんど丸腰とも言っていい状態で、就職活動とか進学という状況だけは迎えたくなかったのである。
他大学院進学というのを夢見ていた昨年の自分というのも、どうしてそう考えていたのか今でもよく分かる。
とにかく、この丸腰状態をなんとかして、就職活動に臨みたかったのだが、
まぁ仕方ないので「諦めて丸腰で」というのは、私が相当に妥協した産物だろう。
今仲良くしている友人だって、一年で何単位取ったと自慢げだけど、はたしてその先に何が見えてるのかなぁ。
何か自分に付属した武器というのが、精神衛生上必要だと思うけど、自分にはそれがないと認めるのに
随分時間がかかった私に取って、彼の無防備さに対する無神経さというのはあまり理解できない。
私が彼くらいの年齢だったときは、結構な激情の中で過ごしていたと思うのだけど、あの妙に達観したオジサン的思考は
どこから出てくるものなのだろうか。20歳やそこそこという年齢というのは、虚栄心とかそういうものに取りつかれたり
するものではないのかしら・・・。


就職活動も、こんな状態なので、ESを書けだとかそんなこと言われても書きようもなく、私は私が思うような人生は今のところ
全くと言っていいほど送っていないし、不本意に学生生活のすべてが終わったといっても過言ではない状態で、
「一寸先は闇」ではあるのだが、とりあえずそうは言っても人間生きていくしかないのである。
「こうなりたくない」と思った自分というのは、過去にもいたが、「明らかにそうなりそうだ、そうなる確率が非常に高い」
という状態を嫌悪していたわけで、初めからこの大学の大学院で、他の堕落した連中よろしく過ごすというのはとても嫌だった。
今はなんていうのだろう、そういう形式的なことにも無縁で、私は世俗的な価値を追い求めてもどうにもならないところにいるらしい、
というのがなかなかにはっきりして来たわけで、力を抜いている次第。
藻のように浮き、何処かに流れ着くのだ。それだけの話だ。
これからどうなるのか、どこに流れ着くのか、これからが一番苦しいのだろうと思う。
学校が終わってこれだけ平穏な時間が過ぎているけど、これは嵐の前の静けさ的な時間なのである。
「なるようにしかならない」というのが最近の思うことではあるが、「なるようにしかならない」というのは、
私が間違いなくそういう「なるようにしかならない」大学に来てしまったからなわけで、
「なにか特別なことをしなければ脱出できない」ようなところに落ち込んだからである。
とはいっても「何かしなければ脱出できないこと」というのは一体何なのか。
一体どこに脱出するというのか。給料の良い企業かな?
そもそも他の良い大学に行ったとしても「何か特別なこと」が私にできただろうか。
少なくとも自尊心を持って勉強はできたと思うけど・・・。
なんだか見えない青い鳥を追いすぎていた感じがしてならない。


留年を繰り返したことの理由のあるひとつといえば、昔大好きだった女の子に手も足も出せないで挫折したことだろう。
まさに絶望だったし、若いころの失恋というのは本当に強烈なインパクトがある。
今よりもとても一本気だったし、なんていうか考え方自体が危なっかしい感じだったしなぁ。


結局何なのだろうね・・・。人生は思う通りに行かないけど。