本当に何かと向き合うということは勇気がいるのだろう

本当に自分の心の中に浸食している欲望とか、あるいは願いとか、
そういうものに向き合うというのは、それがどんなに私の心の底からの叫びであろうと、なぜか遠ざけてしまう。
思いが強すぎて、それに自分自身が怖気づいているのかもしれないし、
一方でその強い思い(欲望)が成就してしまえば、なにやら人生が自分自身の未体験ゾーンに突入するから、
惰性の中で生きていきたいという思いが強い人間は、そのだらだらした安寧というのを崩さないために、
自ら欲望の成就から自分を遠ざける、という説明もできるかもしれない。


強く惹きつけられるのだけど、逆にだからこそそこに近付くと今までの自分とは違う人間になるかもしれないという恐れ。
その先にもっと自分を解放し続けないといけないような未来の予感。
強い欲望を持つ私というのは、欲望を達成した後の私とまったくの別人なのだろう。
欲望を持つ私は、おそらく自分がいなくなってしまうのが恐いのだろう。
だからこそ自分が消滅してしまわないように、自分を不幸の中にとどめて安寧としているのを強制するように振る舞う。
きっと自分が変わって別人となってしまったときに、別人になるだろうなぁという予感する自分というのは
自分が消えてしまうから寂しいのである。
だからこそ、そこから自分を出そうとしないのである。
何時までも自分の想像の範囲を超えることがないところに自分自身をとどめておきたい。
こういう感情というのは、人間にはあるのではないかと思う。


例えばあと一歩で前人未到の地点まで到達できそうになったアスリートは、
自分の中に一方でそれを阻もうと必死になる自分を見つけることができると思う。
一流のアスリートはそんな限界を何度も突破してきただろうから、それをコントロールできるのだろうけど、
そうでない人間は、それを阻もうとする自分を見つけることが出来て、それが強烈に働きかけているのを見つけるかもしれない。
手術中に大動脈を器具を用いて抑えていろと命じられた手術助手の手がふるふると震えだして、
ここで自分自身の手が決して震えてはならないし、ましてやびくっと痙攣して大動脈を引きちぎってはいけないと思えば思うほど、
なぜだか手が震え始めて、挙句の果てに手先が痙攣をおこし、大動脈を引きちぎるに至るのである。


こういう類の感情がなぜだか人間を支配しているように思う。
例えば勉強をしっかりして、毎日真面目に過ごしていれば、それなりの大学に入って、それなりの企業に入れて、
それなりの生活ができますよ、という世間の表立ったストーリーはそこにあるのだけど、
しかし、そのストーリーの上を、その先のニンジンのために本気になって取り組む人間なんて現代にはあまりいない。
予測された未来が嫌なのか、なぜだか一方でその幸福の枠組みに、全く持って触れないようにしようとする気持ちがわく。
なぜだか不幸になりたがる、という自分の中の衝動について考えてみると、特徴は書いてきたような感じのものである。