居残り、苦手だった実験の教官の素顔

今日も実験。他のレポート書いていて予習が全く追い付いていない部分があったので、
実験に行って「こりゃやばい」と思いながら委縮しまくっていた。
その後、居残りで予習課題をやることになったのだが、次の時間の補講にでてから、再度実験室に行った。


予習課題を計算しただけだが、随分時間がかかってしまった。
8時頃くらいに終わったはずだけど、なぜか時間が飛んで9時ころになっていた。
あの時間の過ぎ方はすこし腑に落ちない部分があった。


数時間、私が一番苦手だった実験の教官と一対一。
どうしようかと思っていたが、案外フランクな人でいろいろ教えてくれた。
私は結構自分の偏見を持って他人を見る癖があるようで、
これまで多くの「出会い損ね」というのをしてきたと思うが、今日はまさにそれを感じた。
もう何年も学校が嫌で嫌で仕方がなかったのだから、「出会い損ね」など当然起こるだろうけど、
もし何年も前の2年生の頃に、きちんと勉強と向き合っていたら今とは違った人生を歩んでいたことだろう。


今もそうであるが、昔などは自分以外全員敵とでもいうような精神状態だったから、
物事に対しても、他人に対しても悲観的で冷たかったのだろうと思う。
そういう冷めた物事の見方をしてこれまでどれくらいの損をしてきただろう。
この私が苦手で仕方がないと思っていた実験教官のほかにも、私が独断と偏見で近寄りもしなかった人がいて、
話しかけようとしてくれていたりしたのだが、私は自分の殻の中に引きこもり、それを黙殺したこともあったなぁ・・・。
「話してみれば印象とは違って案外会話が弾む」ということもよくあることで、
さらには大学での勉強というのは大学教員と如何にコミュニケーションをとり、分からないことを分かるようにしていくか、
ということもとても大切なことで、それはいつか大学を卒業してからも大切なことなのだから、
やろうとしなければならないことであったはずだが、私は自分の殻の中に閉じこもりそれができない。
一年前も実験の教官から言われたことがある。自分の殻の中に閉じこもって身動きとれないようになってはいけないと。


いろんなところで、自分の中に閉じこもって外界とコミュニケーションを取ろうとしない私の悪しき傾向というのが
悪い方向に働いていたわけだけど、私はそのことをまったく分かっていなかった。
必要な人と、必要なコミュニケーションを取ろうとしないというのは、(あるいは何かが転がり込んでくるのを待っている)
昔からの私の悪い癖で、それによってどれだけ損をしてきたのかと思うと恐ろしいほどではあるのだが、
それを推し進めていたのは、若い私の悪い意味でのプライドであっただろう。
実際、他者とのコミュニケーションによって自分の知性が向上していく、ということも当然あることなのに、
私はそういう知性向上のチャンスをすべて投げ捨ててきたし、そもそもそういう知性向上のイメージを全く持っていなかった。
一人本を読み、一人計算し、一人だけよくわかるようになる。
とにかく孤独にどれくらい耐えられるかが勝負で、それ以外のことではない。
ずっとそう思っていたけど、そういう時間も確かに必要だが、それをした分、さらに他人とコミュニケーションをとって、
対話の中で理解を深めるということもとても大切なことである。
授業に出て、ノートを黙々と取り、試験前にノートを丸暗記して、良い成績をとり、すらっと卒業する。
そんなイメージだったけど、本当はもっと泥臭い・・・。
泥臭くなければ知性など向上しようもないし、私はスマートなタイプの人間ではない。


苦手だと決めつけていた実験の教官は、ずっと私の遅い計算に付き合ってくれたし、
私を応援してくれているのだから、なんとか実験レポートをすべて提出して進級しないといけない。
期待にこたえないと・・・。


昔、弓をやっていたとき、私は自分の中に引きこもってひたすら弓を射るということがとても得意だったし、
だからこそ他人より多少たりともそれがよくできることから、物事というのは一人孤独にどれだけ頑張れるかが勝負、
と考えていたが、それは違ったようである。
孤独に頑張るのも大切ではあるが、その分さらにコミュニケーションもまた大切である。
他者との対話によって、知性はどれだけ向上することか。
思いこみが激しくて、なんというかいろいろなことを独断によって思いこんでいて、
それが私を良くない方向に運んでいるように思う。
その悪循環を断つには、自分よりも高い知性を持っていたり、尊敬すべき徳をもっていたりする人間との対話であろう。
そういう他者が周囲にいない人間というのは、不幸である。
尊敬する対象がいないということは不幸である。
そういう人間はどんどん不幸になっていく。
謙虚になって一生懸命また始めようか。