昔を振り返ってみた

ふと、19歳の頃聴いていた音楽をパソコンで再生してみると、昔の記憶が蘇ってきたので
良い機会だから昔を振り返える。


19歳といっても私はとても多感な時期であって、大学にも馴染めなかったし、そのほか何にも馴染めなかったわけだが、
あの頃は対人恐怖症と言っていいほど、人間関係にも神経質だったし、サークルの類に入ろうと思っても
人とコミュニケーションをとるためには一体どうすればよいのか、皆目分からなかったために億劫になっていた。
ただ大学二年から一人暮らしを始めて、一人暮らしにも興奮していたが、あの頃はまともに料理もできないし、
親からの仕送りはほとんど食費に消えていったように思うし、おまけに自炊をするのもインスタントラーメンと
今だったら絶対寄り付かない激安スーパーで買った豚肉ともやしをそのラーメンの中に入れて食べるという具合で、
今考えれば当然身体や精神もおかしくなるだろうというような生活をしていた。
まだビールが上手いなどとは少しも思わなかったし、インスタントラーメンの味にも辟易していない時代であった。


それで、家に引きこもり、当時発売されたff12ps2で廃人プレイしながら、日々暮らしていた。
今でもろくな服を着ていないが、あの頃は服装も今から思えば本当にひどかったように思う。
それから、部屋も今から考えれば想像を絶するほど汚く、(今の部屋もきれいかどうかは疑わしいが)
ゴミの処理の仕方も上手くなかったために、畳んでおいた段ボールの束がゴキブリの巣になっていて、
それがゴキブリの発生源だとも思わないで、なぜか歪んで寝づらい安い1万円程度のベッドの上で寝ていた。


そんな時期、私は何を思ったのか、学校でもうまくいかないし、サークルでも入ろうかと思ったのである。
対人恐怖症、コミュニケーション障害のようなものを抱えながらにして、自分の人生を変えるべく一大決心をしたのである。
あの頃読んでいた本を思い返せば、自己啓発系のコミュニケーション本なんかをマジになって読んでいて、
しかしそれが示していたことというのは、明らかに今の自分には何か足りないという渇望とも似た精神の動きであった。
今でこそ、鬼塚ちひろのベスト盤を冗談半分程度に聴くことができるが、
あの頃はあの自意識過剰な歌詞に、自分をぴったりと重ね合わせることができるほどセンシティブで自己中心的だった。
本来私のような人間は、普通教育など受けて良い方向に人生が動くタイプではなかったのかもしれない。
言葉や論理というものを自分を傷つけ、危うい方向に使うことばかり覚えていた。
下手に言葉を学ぶと、それをろくなことに使えないのである。
なんでもそうであるが、何を学ぶにしても、それを自分、あるいは自分を取り巻く周囲にとって、
有益に使えないのなら、そもそも学ぶべきではないのである。


話を日々の生活に戻そう。毎日学校もろくに行かないで、日々ゲームばかりして、昼夜逆転生活を送り、
さらには日々ゲームばかりしても何か物足りないから、午前中は近くの公園をランニングして、
重い鈍りきった身体を無理やり動かして6kmくらいを根性で走っていた。
走るときも、自分を脅迫しながら走るわけであるから、今考えればおかしなものである。


それで、そんな生活をしながらも新しいことをしようと、不出来で扱いづらい精神を携えてサークルへ。
皆優しく、良い人たちばかりであった。
私の歪んだ精神によっていくらか迷惑をかけた。
また、そこであった中年の男性に私は人とのコミュニケーションの仕方、しゃべり方、関わり方というのをすべて学んだ。
今の私はあのおじさんがいなければ間違いなく存在していなかった。
彼は私にとても親切にしてくれた。
日々が楽しくなったし、サークルでは彼に指導をしてもらったことで小さなサークルでは一番の実力者になった。
大学一年生の頃、学歴コンプレックスの真っ最中にいた私は、なにか一つ二つ、手柄を立てなければならないと思っていたため、
どこかで一番になったり、地方の大会で入賞したり、努力が成果になったり、ということは本当に必要だった。
しかし、当時はその成功を自分だけのものだと勘違いしていたが、
今思えばあのおじさんがすべてマネージメントしてくれたのだ。
私が払ったものといえば、若さからくる無限といってもいいほどのエネルギーと、それから人生への後悔の念、
あとは執着心などが、私を信じられないくらい動かしていた。
基本的に動力はさわやかなものではなかった。むしろ、憎悪とかそういうタイプの感情ばかりだったと思うが、
そのどろどろした感情は、ぐいぐいとそれまでの人生の鬱憤というのを発散するがごとく、炸裂していたように思う。
取り組んでいたのは弓であるが、私はそれまでと同じように生活していたのでは処理しきれない過去よりたまりきった
膿のような感情というのを、放たれる矢に乗せていたのだと思う。
そういう仕方で、明らかに悪い感情を外に出していた。
ギリシアでは弓の技術が教養とされていたり、日本では弓道として武道の一つに分類されていることからわかるように、
弓というのはそういう不思議な精神浄化作用というのを兼ね備えている、と思う。
弓を射ることに夢中になって、講義などはさっぱりすっぽかしていたけど、今を持って後悔はしていない。
私はあのような仕方でしか感情を処理しきれなかったのである。


その後、私は増長し、この小さな取り柄というのを前面に出して、態度をでかくして行って、対人関係のトラブルが絶えず、
その社会からは抜け出すことになってしまうのだが、対人恐怖症だった私は、そのころには他人と喧嘩するほど蘇っていたが、
(これを蘇っていたというのかはわからないが)
次には、自分がいる土地が嫌いになり、さらには大学さえ他のところに行かなければならない、などという感情があふれた。
私はこんなところにいては駄目になる、そうずっと思っていた。


そういう感情は最近になって非常に抑えられたけど、
結局振り返ってみれば、私のいびつな精神が多くの問題を引き起こしてきたし、さらには人とも衝突したし、
今思えば多くの人間を傷つけたと思う。
けど、サークルのとき追い付け追い越せとともに頑張っていた仲間のうち一人がずっと私の友達でいてくれたし、
いろんなことをお互いに話したし、感謝しきれないものをやはりたくさんもらったように思う。
あれだけいびつな精神を持った私と仲良くしてくれるというのは、相当タフな精神を持っていないとできないと思うが、
実際タフな人間である。
あとは、色々あって挨拶もしないで別れたけど、サークルやっていたころにお世話になって、私を導いてくれたおじさんには
とても感謝している。
一度は、本音の話をして、私は涙がでそうになった。
人と会話して涙がでそうになるというのは、すべてに対して冷淡だった高校生の頃の私からは想像できない。


あとは精神的に元気になったころ、失恋なども経験したし、親に頼っていたら駄目になると思い込んで、
しゃにむにバイトを詰め込んで、学校も上手く行かせ、さらにはサークルでも結果を出し、挙句の果てには他大学院に進学、
というような今考えればまず無理という無謀な目標に突撃していって、自分の無力さを痛感し、
無気力に陥った時代もあった。
なんというかすぐ感情的になり、極端に走り、「導き手」というのが上手くいっている時は必ずいるのに、
それに気づきもしない頭の悪さがそこにあって、とにかく自分はもっとできるんだと信じ込むわけである。
それで失敗して、「等身大の自分」というのをやはり思い知るわけで、いまはその「等身大の自分」というのを受け入れて、
それでもなんとかやっていこうという段階だろうかと思う。
大学を卒業するにももう8年というのが決定しているし、他人からみれば明らかに長いこの8年の大学生活であるが、
それでもあそこまで歪んだ精神を多少たりとも強制しながら適応しようとしたわけで、それくらい時間がかかったのは
今思えば当然かもしれないと思う。
たとえば共同実験者と世間話をするくらいには、社会復帰しているのかもしれない。
昔の私に実験中に話しかけることができたとはあまり思えない。
負のオーラだしまくりだったからである。いまでもどうかわからないが・・・。


今思えば、ハチャメチャになるべくしてハチャメチャになったと思う。