刺激、感覚、考え、煩悩

「ラジオ版学問のススメ」のmp3を携帯音楽プレイヤーに入れて聴いているが、
一年前までさかのぼって小池氏の回の放送を聴いている。


感覚と考えというのは、感覚に集中すれば考えというのが心に浮かばなくなり、
考えに集中すれば感覚を失っていくという関係にある。
たとえば聴くことに集中する、仕事に集中する、風景を見るのに集中すると、
無駄な考えが湧かない、クリアな状態になると、小池氏は言う。
逆に、感覚に集中しないで、不感症のうちに引きこもると、雑念、煩悩というような「考え」に囚われる。


現代の人間が陥って脱出しようとしているのは、
この「不感症のうちにまどろみ、ただただ空疎な煩悩ともいえる思考の洪水の中で溺れる」という
よくない精神状態の中からではないかと思う。
小池氏もそのようなことを言っていると、私は感じた。


ネットは、この「空疎な煩悩」を垂れ流す場でもあったりするのではないか。
某有名掲示板のまとめサイトなんかを、だらだらタバコ吸いながら見て楽しむのであるが、
あれは煩悩の塊である。
掲示板に書き込む、誰かが自分の書き込みに対してリプライしてくれるかどうか期待して、
再度スレッドをリロードする。これを永遠とやって休日の時間などが過ぎていく。
自分の書き込みが多くの人間の同意を得られるのか、はたまた反論されるのか。
そんな「バーチャル」な「空疎な煩悩的考え」の連続の中で時間を過ごして、
日々時間を過ごすと、子供の頃味わっていた時間の過ぎ方とは違って、「妙な時間の過ぎ方」をするし、
それは「生の実感」というようなものを味わわせるようなタイプの時間の過ぎ方とは違い、
空疎で虚しくなるような現代人の病んだ精神状態を象徴するかの如き時間の過ぎ方をするのである。
いや、そういう「病んだ」時間の過ぎ方が人の精神を虚しく、さらに病ませるのかもしれない。


とにもかくにも、私はここ数年、特に部活をやめて以来、(スポーツをしなくなって以来)
「感じる」ということを止めて、「空疎な煩悩の洪水の中で溺れている」というような精神状態であったと思う。
一言でいえば、「ネット廃人」であるが、要するにそういうことである。


自分の中をバーチャルな妄想が駆け巡る。他人とのやり取りも事実バーチャルである。
昔好きだった異性を思い出して妄想に耽ってみたり、(バーチャル)
ネット将棋にはまってバーチャルな級位を追いかけてみたり、(バーチャル)
ネット掲示板に意気揚々と自分の意見を書いて評価を気にしてみたり、(バーチャル)
要するに自分の脳内に引きこもり、さらにその貧相な脳内から分泌される思考は、
「空疎な煩悩的考え」くらいしか分泌されないので、どんどんつまらない人間になっていく。
日々は自分の頭の中だけで完結しているし、だからこそ時間の過ぎ方というのは異様に早い。
「時間よ止まれ、お前は美しい」ではなくて、「時間よ止まれ、俺を置いていくな・・・」である。


実際、ネットサーフィンという行為自体が、「煩悩的考え」という弱い動力を原動力としている。
「こういうことを調べよう」というような方向性の明白な考えを原動力としていないので、
「目的を達成したので終わり」ということもないし、だらだらとにかく惰性的に続くわけである。
別に「目的意識を持ったできる人間を目指しましょう」ということを言っているわけではなくて、
そのような仕方でしか出会うことのできないサイトもあることは十分承知ではあるが、
毎回そのような「煩悩的考え」を原動力にして、日々の長時間を過ごしていると、
「現代人特有の精神的な病」に陥ってしまいがちだし、さらには時間の過ぎ方も「現代人特有のそれ」になる、
あるいは病的なという形容詞を付けてもいいような時間の過ぎ方をするし、
それに精神のほうが耐えられなくなる、とでもいいましょうか。


私などは特にそういう「無為な時間の過ごし方」ということをすることが多いし、それが常態化しているといっても
過言ではないほど、ここ数年病んだ時間の過ごし方をしているので、大学でも全く上手くいっていない。
もちろん人間関係も上手くいっていないし、社会生活などあってないようなものである。
もはや廃人寸前というところまで行っているというのは過言ではない。


別にネットはただのツールで、それを使うユーザによって薬になるのか毒になるのかというのが決まる、というのは
ネット上で何度も言われてきていることだし、私も同意せざるを得ないが、
特に「煩悩の中で孤立化しやすい人間、引きこもりやすい人間」というのは、あまりネットに関わらないほうがよいと思う。
ネットの世界に閉じこもり、それ以外は自分の煩悩の中に閉じこもり、
日々生きているか死んでいるのか分からない日常を送っている、というような井戸の底にでも落ちて這い上がれない状態に
陥ってしまっている人間に対する処方として、小池氏は次のようなことを言っている。


「なんとなく見ているを、見る、にする。
 なんとなく聴いているを、聴く、にする。
 なんとなく味わっているを、味わう、にする。」


とにかく能動的に「感じていけ」というわけである。
「なんとなく感じる」ということはするな、ということである。
ネットサーフィンなんて基本的には、何かをしながらである。
煙草を吸いながら、音楽を聴きながら、動画を見ながら、というのが当たり前である。
ご飯を食べるときだってそうである。
動画を見ながら、テレビを見ながら、ラジオを聞きながら。
全部がそうである。


そうすると、多少の「ながら」ではいいけど、一日の大部分を「ながら」で過ごすようになると倦怠感に包まれる。
面白くない、現実感がない、生きている気がしない。
その「なんとなく」というのを排して、自分の五感に集中する。
たとえば自分の呼吸に集中する。風景をまじまじと見ようとする。
そういうことをすると、随分感じるようになって、「臨場感」さえ生まれるようである。
(これは訓練によるらしいが、日々心がければそのうち何とかなるだろう)


とにかく、「なんとなく」という状態が支配する状態を脱して、五感入力に集中することにより
それが「能動的な人生」に変換される。


ネットなんて今どき目的意識を明確に持って使う、というようなことをする人間など珍しいというくらいに、
日常的になっているし、だからこそ多くの人間が気軽にアクセスする。
昔でいうテレビと同じであるけど、テレビも「煩悩の増幅装置」にいつの間にかなったが、
ネットでは自らの煩悩を表現として排出し、さらには他人の煩悩に憑かれ吸引する「煩悩排出吸引装置」に、
使い方が悪ければなってしまうのである。
随分、ヤバいことだと思う。
なぜなら病んだある個人がネットをして、悪い性質の煩悩を排出する。
それをさらに「心の弱い人間」が吸引して、ゾンビがもう一人増える。
それをエンドレスに繰り返していくと、大量の煩悩ウィルスにかかったゾンビが生み出される。
そうやって良いも悪いもない、ただのツールであるネット自体が、煩悩に汚染され、人の心を汚染する。
遠くない未来、ネットを使う人間のメンタルを検査して、使用時間を制限し、見ることのできるサイトを限定するような、
車に乗るのも免許がいるが、ネットをするにも免許がいるような時代が来るかもしれない。
ネットを煩悩で汚染しないために。


あとは刺激について。
この「なんとなく見る」とか「なんとなく食べる」とか、そういうものは刺激を求めている。
とても分かりやすい刺激で、凡人が虜になってしまうような刺激である。
この間見た「アンチクライスト」という映画なんかも間違いなく、現代人に「刺激」を与えるために制作された映画である。
どの映画でもそうであるが、あれだけ性暴力シーンを入れ込まなければならないのは、
凡人でもわかる「刺激」を入れるためである。
ネットでも分かりやすい「刺激的な話題」を探すし、甘いものを食べたくなるのは、「安易に得られる刺激」だからである。
一方で、仕事なんかに集中しても大した「刺激」などは得られない。
「普通の時間の過ごし方」をしても「刺激(誰でもわかるもの)」は得られない。
むしろ、面倒くさいものばかりである。


それでも、たとえば「見る」という誰でもしている刺激の少なさそうなものに「(微弱な)刺激」を認める。
「聴く」ということに、「刺激」を認める。
それは暴力的なシーンを含む映画をぼーっと見るよりも刺激は少ないかもしれない、
あるいは甘いものをぼーっと食べるよりも刺激は少ないかもしれない、(現代病を抱えた人間には)
しかし、多少たりとも「分かりやすい安易な刺激」をだらだらと享受するような精神より、
「シンプルな刺激に耳を澄ます、目を凝らす、じっくり味わう」ということをして、
自らの感覚を鋭敏にすることにより、刺激を自らが増幅することによって「生きている感覚」を得る、ほうが上品であり、
健全であり、本来の人間のあるべき姿のような気がする。
もちろん「本来の人間のあるべき姿」など「物語」に過ぎないが、実際に現実を生きていくという点では、
見過ごされてはならない上品さだと思う。


「なんとなく見る」を「見る」に、「なんとなく聴く」を「聴く」にするというのが、
瞑想だったりするらしいのだが、私は私の病気を治すために、そういうことをしよう。


大学で何年も留年しているのも、出された課題を現実逃避をしてしようとしないからである。
そもそもこの大学に来るのにそれほど努力というお金を払わなかったのに、
一方で大学を卒業するにはこれほどまでに課題をこなさなければならないのか、してたまるか、というような理由づけから、
こんな大学で勉強してもろくな企業に勤めることはできないし、一生馬のように働かされる、というような悲観により、
全く現状を肯定できないし、さらには未来に希望さえ持てない、という精神状態によるものである。
この考えというのも、仏教では一種の「煩悩」と分類されるようである。
さらには、「俺がこの課題をやるのならば100%できなければならない」というような「気負い」というのも「煩悩」である。
これらは真剣に課題に集中している時には、出現してはならない類の考えである。
要するに「仕事を感じていない(集中していない)ので、煩悩が出現している」という現象なのである。
これは最初に説明した、「感覚と煩悩は、煩悩がない時感覚が優位で、煩悩があるとき感覚は麻痺する」というような、
実に数学的にも正しいかと思えるような理論を適応すると、説明できる現象である。


例えば、電車に乗っていたり、道を歩いていたりすると、「独り言をずっとしゃべっている」というような人間がいる。
こういう人間を、この理論で説明すると、
「煩悩があふれかえって口から洩れている」というような人間であるといえる。
「感覚」というのを失いやすく、脳内のバーチャルな自分の思い込んだ世界にすんでいる人間は、
その症状として、口から煩悩を垂れ流すのである。
基本的に「煩悩」にとらわれやすい人間なのであろう。だから誰かに導いてもらわなければならない存在であるが、
自分の妄想の中、バーチャルな世界の中で過ごしているので、その誰かからの声も不運にも届かないかもしれない。
そうするとさらに原子化が進み(孤独に陥り)、自分の中に閉じこもり、あふれる煩悩を口から垂れ流すに至るのである。
私も基本的にはそういう体質の人間に近いので、瞑想でもしてみようかなぁと思う。


レポートなんかを書くときに、ふと「なんでこんなことしにゃならんのだ!」といろいろ理由をつける思考が
浮かび上がるときがあるが、あれは「煩悩」であるので、それが浮かんだ瞬間に「煩悩だ!」という訓練をしなければならない。
どうやら実験レポートを書くのは、私にとって修行らしい。
ネット依存症、大学多留、リアル不幸せ、の私を説明するには十分な、単純で明快な理論であると思い、深く共感した次第。


ちなみに、被害妄想などもバーチャルなもので、たとえば被害を受けているという自分という妄想をしたら、
それを煩悩として、よくよく相手を見たり、聴いたりすればよいのである。
自らの頭の中だけに閉じこもるタイプ人間は、おおよそ本当に敵意のないところに被害を感じる、すなわち被害妄想に陥るだろう。
私も過去を顧みると、そういうことがよくあったように思う。


瞑想によって、仕事をすることによって、リアルを感じる、らしい。
自分を大きく見せたいだとか、そういう煩悩に囚われて首が回らなくなっていたようだ。
もう何年もそういう状況だったみたい。