情報リテラシー、演習問題に突入しよう

ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島でどれほど厳密な手続きで、
どれほど精密な実験を行っても、科学的真理に到達することはできない。
それは彼が実験によって到達した命題が科学的に間違っているからではない。
命題の当否を吟味するための「集合的な知」の場が存在しないからである。
科学者たちが集まって、ある命題の真偽について議論するための「公共的な言論の場」が存在しないからである。
「反証不能」とはそのことである。
命題そのものがどれほど正しくても、他の専門家たちによる「反証機会」が奪われている限り、
それは「科学的」とは言われない。
それと同じく、情報リテラシーとは個人の知的能力のことではない。
「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すことである。」



内田氏が情報リテラシーについて書いていた。
同じようなことを前に書いていたなと思う。
原子化された個人が、自分の情報の精度がどれほどなのかということを吟味する機会がないということについての
問題提起をしているようである。
私もネットでしか情報を摂取しないし、(社会面なんてあまり見ていない)
テレビももはや映らない。
私も間違いなく原子化された個人であり、内田氏の言葉を用いれば「情報難民」である。


欧米では、「大衆紙」とそれから「クオリティー・ペーパー」に分かれているようである。
日本においては、分かれていないらしい。
一億総中流の名残だということで、情報の階層化が欧米ほど進んでいないことが原因のようである。


日本もこのネット社会の到来で、情報の階層化が進んでいて、たとえば陰謀論を高々と持ち上げてみたりするのは
これは、情報難民の出現ということのようである。
フジテレビで大規模デモが起きているということがネットの情報であったが、
はたしてどのような社会的階層の人間が中心となっているのか。
ネット上ではフジテレビは韓国に乗っ取られていて、もはや日本のテレビではないといわれている。
(私は見ていないのでわからない)
が、これは陰謀論ともとれる。
こんなこと考えだすと、何が本当の情報でなにがただの疑心暗鬼の陰謀論なのかわからない。
そのために公共のプラットフォームを再度拵えようといっても、おそらく情報難民たちは
「政府の情報操作」という陰謀論というものを疑わざるを得ない性向なわけで、
どうしようもないと思うけど。それはネット社会の特性より生み出された人種だろう。


考えだしたらきりがない。「社会で生き残るための」情報摂取は内田氏の言う通りなのかもしれない。



今日もスウ氏のベクトル解析に取り組んだが、もう少しで終わりそうなので電磁気学の丁度良い演習書を
図書館で借りてきた。
100問あるらしいので、9月中にすべて解ききってやろうと考えている。
理論書よりも演習書に取り掛かるのは、私が理論書をぐだぐだ読みだしたら終わらないからである。
とにかく演習。
電気回路でも演習優先の手法を使って勉強しようと思う。


そもそも工学というのは、理論を学ぶというよりも、演習を中心としたほうが、早く身に着く。
そう思う。


明日は親に呼ばれて実家に帰る。いろいろあるけど、私はここで終わるわけにはいかない。
昨日、鬱鬱として湖公園を散歩していたのだが、月が湖面を一筋の光の道のように照らし出していた。
私はそれを見た瞬間、思わずこれは私の道がまだまだ続いているということだと思った。
神様が見てくれているのだと思った。
それだけ精神的に追い詰められたということであろうが、しかし私は信じていくしかない。
「私は学びたいのです、先生」というまるで懇願するような姿勢というのは、
なにか祈る気持ちに似ている。
「私はまだ生きたいのです」「よく生きたいのです」と思う心は、もしかしたら何かを前進させるための
唯一の動力なのではないかと思う。
そういう気持ちは忘れてはいけない。


大学で原子化してしまうこともあまりよくないことなのだろう。
ふと思った。
なお将棋は連敗しまくり、中級まで落ちてしまった。1200くらいまで上がったのに。
上がるの早ければ、下がるのもまた早い。


孤独と孤立はやはり違う。
孤独は受け入れなければならないが、孤立はしてはならない。
難しいものである。
最近よく思う。何年も間違いをたくさんしている。


人が一人生きていくのに、なぜか他者というのは必要なものなのである。
別段家族以外にも、必要である。
自分一人で生きていこうと何年も前に思ったけど、どうやらそれは不可能のようである。
少しは人に対して柔らかくなれるだろうか。
ここ最近の私の失敗を見ていて、そう思わざるを得ない。
内田氏の他者論にも同意せざるを得ない。