コクリコ坂から


今日は水曜日、メンズデーであったので1000円払い、「コクリコ坂から」を見に行った。
原作というのは、非常に古い少女漫画であり、ジブリの絵とは全く違うものである。
古い少女漫画ということで、ストーリー、それから街並み共に古臭い。


1960年代、オリンピックがもう少しで来る、というくらいの時代である。
学生運動が起こっていた時期かしら。
ノルウェイの森」も映画化されたが、あの時代のお話だけど、
最近は1960年代を懐古的に振り返る映画というのは流行りなのだろうか。


主人公の女の子は、原作では古い少女漫画風のキャラクターであるが、
ジブリ特有のヒロインにとってかわっている。
芯が強そうであり、目に力があり、それでいて清楚で真面目な美少女。
私が大学の部活をやっていた頃に、好きだった女の子と非常によく似ていた。
こういう女性というのは、非常によくもてる。


しかし、ずるいのは、このヒロインだけ目は力強く描かれていて、印象に残るように、
他にたくさん出てくる女性キャラクターと区別できるようにされている。
若い男の頭の中というのは、美人な女とその他の女という感じで、
現実でも視界の中では区別されてしまうのだが、それをそのままアニメにしている。
耳をすませば」の主人公「雫」はまだ他のクラスメイトと入り混じっても大して違わないように
書かれていたからいいのだが、今回のヒロイン「海」は「いい女」のように書かれている。


ただ、別段男目線で書かれたアニメというわけではなくて、男性キャラクターの主な登場人物は、
なかなか美系、ハンサムに描かれていて、その他脇役(大勢のクラスメイト)の手の抜き方というのは
半端ないものがあると思う。
それゆえに、ジブリの青春映画を見ると、大してリアルが幸せでない人間というのは、
取り残された気持ちになるのだが、(押尾守監督も書いていた通り)
それはそれとして楽しめばよい。


印象に残るのは、やはり「カルチェラタン」である。
文化系の部活があんなに楽しそうなのは、かつての旧制高校や日比谷高校の影響、
それから1960年という時代というのがあるのだろうが、
まだ「文化のある青春時代」を送ることが出来た時代だったのだと思う。
今では文化系の部活などは、よほど上等の高校でない限り、ヲタクの巣窟と化している。
現実が充実している高校生は、文化部でガリ版がりがりしている時代ではもうないのだろう。


今の少女漫画で、例えば「カルチェラタン」のような文化系の男子高校生と、
その男にあこがれる清楚で家事もよくし、将来の夢は医者であるような頭の良い女生徒という
組み合わせはもうないだろう。
何かのロックバンドで、DQNといってもいいような男と、頭の足りない女の物語の方がやはり受ける時代で、
きっと人間が劣化してしまったのだろうと思う。
そこに描かれる恋愛模様というのは、猿のセックスと変わるものではない。
もちろん、1960年代にはインテリ連中に左翼ブームが到来して、言論の力というのが
今よりもはるかに高校生の間でもその価値というのを認められていた時代背景と比較して、
ソ連崩壊以後、インテリが押していた左翼も元気がない時代であるし、
それゆえに「頭でっかち」や「言論」というものに、それほど世間的な価値が認められていないのが
現代なのかもしれない。
だから「コクリコ坂から」のような懐古的な恋愛は、もはや平成生まれの少女には理解不能のものだろうし、
平成生まれの人間が見たら、「なんだか古臭い」と思われるのだろう。
ノルウェイの森」と同じく、現在60代という世代には随分指示される映画なのではないかと思う。


数学セミナーなどを読んでいて、高校二年生の頃にすでに高木氏の「解析概論」などを読むという文化も、
やはり旧制高校の時代の文化ある青春モデルから来るものだと思われるのだが、
私が高校生の時は、「学問はすなわちパンを食べるものだ」ということを言った方が現実主義者のように
思われるような時代で、本を読んだり、今でいう大学レベルの数学をしているというと
随分変わった人間だと思われるような時代だったが、(私の高校が普通の県立で民度が低いのだろう)
2000年代に高校時代を送った人間は、1960年代に高校時代を送った人間よりはやはり
文化度の低い高校時代を送ったはずである。


カルチェラタン」には、数学部、哲学部、化学部、新聞部などがそろっていて、
それぞれに青臭い議論もしたような時代なのだろうが、
いまあのような文化のある高校が存在するだろうか。
私の高校などは偏差値上では60くらいあるのだが、文化度としては非常に低い。
どうして中学時代に、平均以上の学力を持っている人間が集まって、
あれだけ低い文化度になるのか不思議なほどである。


数学などを個人的に研究している、なんていう人間は、工学部にいても一人くらいしかあったことがなく、
ランダウを原書で読もうと頑張っていたが、おそらく読めなかっただろう、地方国立しかこれない頭だから)
その人間も相当変わりものだから、であった一人に入れてよいのかもわからない。
そもそも学校の勉強を「就職のためにドライに片付ける」ということが一番で、
勉強という行為そのものが、個人から発せられたものではなくて、学校に寄りかかっているという
秀才像だから、なんだか妙な話になっている。
好きでやっているというより、学校にしたがっているというほうが正しいと私は思う。
そして大企業に就職していく。
それが地方国立の秀才像であるが、東大京大になるとまた違う文化があるのだろう。


高校の男子生徒が、後輩の女子生徒にあれほど尊敬されるような時代ももうないのではないかと思う。
皆の前で言論する人間が、1960年代にはまるで文化系のスターのように扱われたが、
いまそのような雰囲気はないだろう。
あっても体育会系のスターだろうけど、「コクリコ坂から」に描かれているような、
「頭でっかち系の恋愛」は、この時代にあるのかなぁ・・・。
私の過去を振り返って、正直なところ見たことがない。
戦後間もないから高校生女子もギャル化していないというのも大きいだろう。
ギャルに詩を送るとどうなるか。
観賞力がないので「きもい〜」という反射的な言葉で片付けることであろう。
よほど人間は劣化したものと思われる。
なんて文化のない国になってしまったのか。
旧制高校のような教養主義というのは、ドイツやフランスなどの欧州の国を見習った結果だろう。
しかし、現在ではアメリカの文化が入ってきてしまっている。
この文化というのは、なかなか粗野で大雑把である。
ハイゼンベルグと米国の物理学者が論争したように、
(一部始終は「部分と全体」のなかにある)
非常に表層的で、物理法則は人間が即ち拵えたものであり、改訂され続け、
自然の法則そのものでは決してない、軽いものだという米国物理学者の意見に対し、
ハイゼンベルグにとっては、物理法則と自分自身の存在というのは、深く結び付いているから、
当然強い反感というようなものを持つのであるが、
確かに彼らが主張する文化というのは、非常に実用的で、クールで、ソフトで鈍重ではないのだが、
これは今の日本の秀才像にも言えることで、非常に「味気ない」のである。