自転車を自分で修理、理不尽に見舞われることについて


一昨日糞餓鬼に壊された自転車を自分で修理してみた。
前輪はひどいダメージを受けたようで、正面から見るとタイヤが傾いている。
図体だけはでかい馬鹿な田舎の中学生に自転車で横から体当たりされたわけで当然である。


タイヤが傾いているせいで、前輪のブレーキとタイヤが常に噛んでしまっているという状態になっている。
ひどくやられたものである・・・。
これでろくに親は謝罪もしないで、保証も修理費の5割しか出さないわけで気の良いものである。
これだから田舎の馬鹿は困る。
正直死んでくれればよいと思う。


それはそうと、自分で症状を見てみたが、どうしてタイヤが傾くのかと思えば、
もちろんそれは横から衝撃を受けたからなのであるが、
自転車のどこがひん曲がってしまったのかということが問題である。
フォークの部分が歪んでいるなら、これは即ちボディーの歪みであるから、
修理費は高くつくどころか新車を買う以上のお金がかかる。
そして今回の場合は、フォークが曲がっている可能性が明らかに大である。


前に自転車のフォークが歪んでしまったということが過去にもあったので、
その教訓から自転車屋に行ってもおそらく駄目だろうということを確信する。
その代わり、車輪の留め具の部分のバランスをいじって、少し危険ではあるのだが、
強制的に傾きを直すことに成功した。


しかし修理の際に、まずタイヤが歪んでいることに気づかないで、
ブレーキ部分の故障を最初から疑い、ブレーキをいじった際に、
六角ネジの頭を潰してしまったので、これをホームセンターかどこかに買い替えに行かないといけない。
しかし、六角の穴が馬鹿になったものを取り除くためにはネットで検索したところ専用の工具がいるらしく、
その工具とそのサイズの六角を手に入れることができれば、一応走るようにはできることが判明した。


午前中から取り組んで、手は真黒である。


ただ、クロスバイクの構造がよくわかった。
自転車のブレーキの構造も正直よく知らなかったのであるが、いじってみれば単純な仕掛けである。
手元のバーを引くと、導線がその力を伝え、途中に電気回路でいう増幅装置のようなものがあり、
それがブレーキを閉める力までに変換される。
タイヤも外せるようで、自転車のいじり方が多少分かったが、
ブレーキ部分をいじったり、タイヤの固定器具をいじったり、素人なのであまりしたくないが
この際仕方がない。
折角のクロスバイクであるが、スピードは控えるようにしなければならない。
現在、私がブレーキの修理を失敗したせいで、前輪のブレーキがよく機能しない状態である。


全く、大損をしたものである。
この辺の土地の民度が著しく低いことは、何度も言うように再確認した。
もちろん良い人はいるのだが、それでもどうしようもない人間がたくさんいる。




ただ、こういう不運を嘆きたくなるような事件に出くわすと、私の頭は著しくバランスを損なう。
昨日も、頭の中でイライラが爆発した状態になって、同じ考えが何度も頭の中を行き来し、
夜も眠れなくなる。
今年の初めに同じような人災としか思えないような事件に出くわしたときに、
そのような状態になった。
あの時はあまりに頼りない警察の対応にもイライラして、私はそのような理不尽な事態に
出くわしたことがなかったので、刑法についても調べたし、警察と検察の仕組みというのも調べた。
それから対応策をネットで探した。「法テラス」というところに行きついたが、
弁護士費用は貸してはもらえるものの、いつかは返還の義務があるという仕組みで、
経済的な弱者を救えるかどうかというのははなはだ疑問であるし、
そもそもそれにそのローンを組んで弁護士を雇ったとしても、
裁判にかかる時間と得られる金額を二つ並べたときに、ひどく割に合わない事を知った。


もちろん略式訴訟などということもあるが、これもまた自分で文書を用意しなければならない。
なぜ被害者がこれほど面倒くさい手続きを踏まなければならないのか。
被害者の時間も限られていて、その事件に関わる時間もお金も無駄である。


とにもかくにもこのような理不尽な事件に出会い精神的に不安定になったが、
前回の教訓というか経験があるために、自身が不安定になっているのが客観的にわかるし、
だからこそなるべくイライラしないように、思考が逡巡しないように努めることもできる。
これも経験ではあるのだが・・・、しかし腹が立つ。





年を重ねるたびに、理不尽に出会う機会というのが多くなった気がする。
なぜこのようなことをされなければならないのか。
一方的に物事を押し付けられる機会が多くなった気がする。
特にここ数年はその傾向が強く、何やら神様が私をいじめているなと思う。
理不尽に出会うと、しかしそのうちに耐性のようなものができてくる。
仕方がない、しかしこれ以上損はしないようにしようという、最悪の事態まで陥るのを
回避するような弁ができ始める。
そのためには精神を乱してはならないし(たとえどんなに身に起こったことが理不尽であっても)、
乱せばより悪い方向に向かうわけである。
それを食い止めるためには、「仕方ない」といって忘れるという技術が必要なのである。
資金と人脈でもあれば、「仕方がない」と我慢しなくても済むのだが・・・。
忍耐を学ぶわけであるが、これはすなわち必要な修行なのだろうと思う。