Endless

今日は知人に夕食に誘われ食べに行く。
サークルで知り合い、結構付き合いは長い相手である。
最近、その知人に会うたびに思うことがある。
私と飯を食って楽しいのか。他に友人を作ればよいのにと思う。


大学、高校と振り返って、私は友人を幸せにするような人間だったかと思うとそうではない。
私はひねくれているせいか、あまり幸せ体質の人間ではない。
どちらかというとその性格によって幸薄い人生を送ってきた方の人間であろう。
だが、世の中には人を幸せにするのが得意な人間がいる。
人を幸せにすることができるタイプの人間が存在する。
そういうタイプの人間は、孤立しがちなタイプの人間を集団にくっつけてあげることが得意である。
人を受け入れるタイプの人間である。


私はと言えば、人を受け入れるタイプではない。どちらかというと孤立しがちな人間である。
集団に気まぐれで入っていくことはあるが、いつも自分の存在の小ささを感じて、
その集団を抜け出してしまうタイプの人間である。
幼児的な英雄感覚を捨てきれない。集団の中にいると自分という存在の薄さを感じてしまうために、
集団に属してもすぐ抜けてしまうタイプの人間である。
大人になりきれないので、集団に属することが下手である。
一人で幼児的な英雄感を持ち続けるという自己満足が非常に得意である。
うすうす自分というのは器の小さな人間だと気付いているのだが・・・。


集団においてひねくれたポジションをとりたがる。
それは自分自身の集団における存在感の薄さに気付いているからである。
その存在感の薄さというのは、「人を受け入れない」という要素に基づいている部分も多いと思われるが、
かといってなかなか路線変更ができないのである。
「人を受け入れない」という自身の特性によって、「集団での自身の存在感の欠如」というのを招いているが、
「集団で存在感が示せないから」こそ、「人が嫌いだ」となるわけで、
だったら「人を好きになって人を受け入れるようになれ」というのが本筋なわけであるが、
それならそちらが最初に「私を受け入れろ」という我儘を私は通したくなるのである。


文化人類学が教えるところによると、「すべては贈与から始まる」である。
他者に贈与することから、文化の全てが始まる。
しかし、私はその贈与の受け手になりたがるわけで、発信者になろうという努力は皆無である。
「贈与しない人間には贈与は訪れない」というのが真理のようだが、
その真理というのは、初めに送り手がいて、その対として受け手がいるわけで、
だったら送り手になるのは、損ではないかという消費者マインドに私は毒されている。
でも不思議である。「すべては贈与から始まる」のに、初めに受け手が存在しているのだから。
その受け手は「すべては贈与から始まった」となる(笑)。


贈与というのは、そのような単純なものではなくて、送り手が受け手で、受け手が送り手なのだろう。
双方向のコミュニケーションを贈与というのかもしれない。
どちらに送り手意識が欠けても、贈与というのは成り立たないのだろう。


さて私は一日の内に誰かに何かを贈与しているだろうか。
全くしていないし、その努力もしていない。
ただ与えられるものを待ち続ける蟻地獄のようなものである。
そういう人間というのは、幸福が枯渇しがちである。


私の場合、好きな異性が出来ても、求めるばかりである。
何かしてあげたという経験がない。
友人に対してもそうである。積極的に何かをしてあげる、ということがなかなかない。
集団に置いて循環した贈与の輪が、私のところで停滞するのである。
そういう人間というのは、集団から追い出されるのに十分な理由を持っている。


そのような私であるが、友人が出来ると比較的深い付き合いになるのだが、
その友人と二人で孤立系を作ってしまうために、末長い関係にはならない。
私の孤立症候群を移してしまうために、友人まで不幸にしてしまうような感じになってくる。
最近、長い付き合いの知人と飯を食うとそんなことを思ってしまう。
とはいっても、私と二十四時間あっているわけではないので、別のところで別の人生を歩んでいるに違いない。
そうであってほしいと思う。


でもいつまでも幼児的な妄想をしていないで、贈与の輪の中に、自分が贈与の送り手として
参加していかないとなぁと思うこの頃である。


題名の「Endless」は、keith jarrettの一つの曲の題名で、とても気分にあったからタイトルにしてみた。
私の惰性的な人生は、本当にendlessである。
高校の時も人間関係で苦労したが、大学の今でも別段変わらない。
誰にも相手にされないで、誰も相手にしない、そういう人生がなんだかendlessに続いていくようだが、
しかしこのkeith jarrettのendlessには、何か人を慰めて、違う方向に向けるような何かがあると感じる。