昔片思いしていた女の子

今日は朝から霞がかかって、なんだかほわほわした気分になった。
春の到来を感じさせる光景である。
二月になって暖かくなったりする頃、三月の初めなどは、
本格的な春を迎えそうだと思って、なんだか気忙しくなるような気がする。
気忙しいというか、わくわくというか。


別段春に良いことがあったわけではないのだが、古来から人間は春の到来を喜んだのだろう。
なにか期待してしまうような、気持ちになるわけである。
個人的には春によいことなど特になかったのだが、そういう気持ちというのは
昔の人間から遺伝されたものなのだろうと思う。


それでなんだか今日は夢を見て起きた。
数年前の夢だったような気がする。
片思いをしていた綺麗な女の子が出てきた。
20歳やその辺の年齢だったし、そのころ好きになる異性というのは、
身の丈以上に綺麗な女だったのかもしれないと思う。
私はなかなか仲良くなれなくて、勘付いてきたのが、
私は彼女のパートナーになるのには不相応なのかもしれない、ということである。
若いからそれをなかなか認めることができないのである。


ただ、私は彼女に対して「壁」のようなものを感じていた。
彼女は育ちがよく、親にも大切に育てられただろう、その感じ。
誰にでも愛想がよいので、無愛想な私は彼女とコミュニケーションをとるのが容易ではなかった。
彼女が好きなタイプは、社会性のある健全なタイプの男なのだろうと感じていた。
しかし、それを認めたくなかったわけである。
なんとか気を引こうと躍起になったのを覚えている。
あの頃、大学の成績も上げて、部活の成績も上げて、良い企業に就職して、
彼女の気を引こうなんて、半ば本気で考えていた。
それには金がいるから、バイトをしようなどと言って、今からは信じられないほど働いた。


その目論見はすべて、失敗して無に帰したわけである。
今では何回も留年している世間でいう「負け組」であるが、
あの頃の忙しない気持ちよりも、今の方がずっと安定しているように思う。
彼女と私の間には、「社会的ななんらかの壁」のようなものが存在している。
それを認めるには、私は若すぎたのである。
基本的にある組織で、ある異性と付き合おうとするなら、
其の組織自体が「お似合いのカップルなのか」ということを集団的無意識で判断を下すのである。
そして不幸にも「お似合いでない」と判断された若い男というのは、
自分に無力感を感じざるを得ないだろう。男というのはそういうものである。
映画「タイタニック」でジャックとローズが、一等質と三等室という社会的な壁に阻まれている。
そして三等船室のある乗客がいう。
「高値の花だよ」
要するにこの時「社会的な壁」というものがジャックとローズの間に存在している。
集団に属していると、「付き合う」ともなると、そういう「チェック」が入ってくる。
集団で嫌われる人間は、その「チェック」を気にしない、「空気の読めない」人間である。
そういう場合、「あいつは不遜である」といわれるようになるわけである。


ただ私はそのような集団的無意識によるチェックなど無視する「不遜」な人間の方が好きである。
集団において、寄りかたまって自らの無知無能を正当化するために、
判断を下す方に回る人間が大嫌いである。
「不相応」と人に判断を下すことによって、自らの無知無能が少しでも救われると思っている、
気持ちの悪い人間が大嫌いである。
だから「空気が読める人」などと好きな人間のタイプを述べている人間は、大嫌いである。


というわけで、昔好きだった「高根の花の女の子」を思い出すと、苦い思い出ばかりなのである。