barといわれるところに初めていった

久しぶりに知人と飲み会をした。
飲み会といってもただ一緒にお酒を飲んだだけである。
知人が務めるbarにいったわけであるが、ぼちぼち楽しかったかな。


いま就活している人間がいて、その就活話を聞く。
大阪で就活していて、一度も今の大学のある県から出たことがない人間だから、
大阪の雰囲気が新鮮で仕方がないらしい。
未来に希望を持って、頑張っているのは私が見習わなければならないことである。
20社くらいまわる。それからいい企業に受かれば工学部特有の学校推薦は使わない、
という作戦のようである。


サークルで知り合ったので、話はサークルの思い出話である。
もう引退して何年も経っているのである。
懐かしい話ばかり。
そろそろ皆就職していくわけで、留年している私としては寂しい限りである。
世の中はどんどん移り変わっていく。
でも私はどうにもあまり変化がない。
なんだかひどく孤独感と寂しさというものを感じる限りである。


大学も人がどんどん入れ替わって循環してく。サークルもそうである。
かつていろいろな人がそこに集って、また別れていく。
もう本当に信じられないくらい・・・。
今思い出せば、高校までろくに友人などいなかったから、最初に旅行に行ったり、
飲みに行ったり、一緒にし始めた初めての友人である。
サークル関連ではたくさん助けてもらった。


要するに大切な友人たちなのである。
いがみ合ったこともあったが、それでも助けてもらったことなどはやはりある。
私のキャンパスライフを彩ってくれた大切な友人である。


高校時代までは人が嫌いだったし、怖くて仕方がなかったのだが、
こうやって仲良くなった友人、多くの時間を一緒に過ごした友人が卒業していくのをみると、
非常に切ないものである。私も変わったものである。
高校時代の卒業式など出席するのも嫌だったくらいである。


大学の方も留年を続けてもう今年から7年目の在籍である。
自分でも信じられない状況である。
人間関係にしても、勉学にしても過去にこだわり過ぎである。
「過去と喧嘩する」というのはこのことである。
人間関係にしても、勉学にしても、過去にこだわり続けて、自分をがんじがらめにしている。
やはりそれは違うよなぁと最近思う。
なんども留年する。新しい気もしない講義にはでもしない。
そもそももう一度出席するというのはプライドが受け入れない。
要するに過去の自分を更新できていないのである。


外から訪れるもの、自分に対して近寄ってくるものに対して、私は「恐怖」を持っている。
怖いのである。それは過去の経験に寄っている。
非常に変化を嫌う自分がいる。たとえ幸せそうなものでもなぜか恐怖を感じる。
「物事を受け入れる」ということが私は非常に苦手である。
頑固なのである。この性格が随分災いしているように思う。
やってくるものすべてが、自分を不幸にするようなものをと感じる。


人間というのは、人とかかわり合って技術なりなんなり学んでいくところがある。
大学受験だって、よい塾講師と出会うことができれば合格率というのは上がる。
ただよい塾講師にであったとしても、それを受け入れる自分がいなければ何にもならない。
私は非常に物事を「受け入れない」という性格であるので、
他の人間が人と関わり何かを手に入れたり、身につけたりしていくのに、
私だけは「孤立系」なのである。
人というのは「孤立系」で生きられるほど強くはない。
そもそも社会の中で、ネットワークが完成しているのにもかかわらず、「孤立系」として
生きていくのはなかなか厳しいものなのである。


最近はよくラジオを聴いていて、金運アップや人間関係運アップの風水の方法を紹介している。
「トイレを掃除すると金運がアップする」らしい。
そんなこともあるんだろう。
今年が始まってもう2か月近くたつが、漸く今年の抱負。
「いろいろなことをもっと受け入れることができるような柔軟性を持つべきだ」
いまの自分に対して近づいてくるものに対して、針鼠のように丸くなって攻撃的になる、
というのを続けていては、先細りである。
昔は「学歴」など気にしていたが、なんだかそういうこだわりというのもなくなりつつある。
こだわっても仕方長い状況で、それを気にしていては精神衛生上よくない。


前年の抱負は勉強の年にする、ということであった。
結果、大して勉強しなかった。それでまた留年した。受け入れがたいことが結構あった。
気持ちが前に向かなくなった。
なぜ勉強の年にしたかったかといえば、他の大学の大学院に行きたかったのである。
もちろん「学歴」を修正するためである。
そのために勉強の年にしようと思った。


しかし、それは叶えられなかった。あまりに勉強してなさ過ぎて、間に合わないというのを悟ったのもあるし、
なぜだか気持ちがそちらに行かないのである。
「運命がそちら方向を希望していない」というような感じである。
強制執行のような感じである。
もしかしたら人生が私に対して求めているものと、私が人生に求めているものが一致していないようである。
人生の流れに逆らいつつ、私は自分で決めたものを目指して挫折する。
目標作るというよりも、「日々、自分の方へやってくるものを受け入れる」というような方法で
生きた方がよいのではないかと思うわけである。
人生において、思わぬものに対して適正を発見するということがある。
なぜか運命に導かれるように、自分の力以上に力を出すことができる時がある。
人がなぜかその方向に手助けをしてくれる、ということがある。
それはもう信じられないくらい、万事自動的に上手くいのである。
努力が努力だとは思われない状況。


そういう人生の時間というのは、
「人生が私に求めているものと、私が人生に求めているものが一致している状況」であるように思う。
今の状況を考えるに、「私」が何かを求めて無理して動くよりも、
やってくるものに対して「受け入れる」姿勢を貫いていった方が、一番うまくいくような気がしてならない。
昨年は待っていた語学学習も続けていこう。これも流れだ。