不安感

昨日の母親との電話で気分が悪くなった。
だからすぐに布団にもぐって寝たのである。
なかなか寝付けない。
しかし、いつの間にか眠りに就いた。
起きたら朝の8時である。
尚も不安感が残っていたので、散歩に出かける。
ぼーっといろいろ考えながら散歩をする。


思うに私はこれまで大学も母親も大嫌いであった。
なにより「単位が取れていない」と母親に罵られるからである。
高校も、大学受験も同様であった。
「成績が悪い」とうるさく言うので、私はどんどん勉強しなくなった。


とはいえ最近思うのは、母親と大学は別物だということである。
最初は母親と学校がどうしても結びついて嫌だったのである。
しかし、徐々に勉強し始めて今に至る。
勉強はぼちぼち楽しい。そういう気持ちも最近生まれてきている。


どんなにギャーギャー言われようが、それぞれは別のことだという認識を
せっかく作ったのだから、手離してはいけない。


しかし、なぜ小学生のころから、大学のころまで、口うるさくいうのだろうか。
小学生の成績などどれほど重要なものなのか。
同期で小学校の教職につこうとする人間がいるが、こういう奴が先生になるのかと
残念に思うほどの人間である。
要するに小学校では読み書き計算がある程度できるようになればよいのである。
別にくだらない授業を聞いて良い成績を収めなければならないわけではない。


なぜあんなにも学校というものを、神格化してみることができるのだろう。
その成績に対して狂信的になることができるのだろう。
良い高校を卒業して、良い大学を卒業し、良い職場で働くというコースに
女というものは憧れすぎる部分がある。
「女は現実的」というが、要するにスノッブなのである。
俗な価値観を狂信的に信じることができる。そういう女は趣味などない場合が多い。


教育ママというのがいる。
良い大学に入って、良い職に就く、というスマートな人生に憧れを抱いている人間である。
学校の力というのを馬鹿みたいに狂信している。
こういう人間が大嫌いである。
なぜそんなにそれを狂信することができるのだろう。
神のようにその価値観をあがめている。
信じられない。
そもそもそのように学校というものが、ある種の権威だと考えて学問に取り組むというのは
あまりに姿勢として固すぎるのではないかと思う。
そういう人間に限って、芸術などと相対する態度が非常に固いのだろう。
要するに「芸術」と言ったらきりっとしてみないといけない、
「学問」といったら真面目にきりっとして勉強しなければいけない、
と高尚なものをあがめてしまう態度で臨むわけで、
だからこそ、教育ママの子供というのはあまり成績がよくならないのである。
要するに教育ママの「お育ち」というものは良くない場合が多いのである。
何か世俗的に高尚なものといわれているものに対して、「余裕のある距離」というものが取れない。
付き合い方としては、リラックスしているのが一番良いのだが、
教育ママのようなお育ちの悪い人間は、「狂信」という仕方でしか付き合えないのである。
可哀想な人間である。
そうやってお金にも社会的地位にも「狂信」するわけで、
その距離の取り方自体が、それらを招かないのにもかかわらず・・・。


教育ママというのは、世俗的な価値観をものすごく「切望」するのにもかかわらず、
その姿勢によってそれが手に入らない人種なのである。
だからこそ子供がいうことを聞かなくなるのだが、本人は自分自身を信じて疑わないわけで、
全ては子供の頭が悪いとなってしまうわけである。
救いようのない餓鬼道を歩む人種、それが「教育ママ的女性」なのである。
オゾマシイ、オゾマシイ。
私はこのような人種を「人間」とは思わない。
「動物」であると思う。