根も葉もない・・・

今日は友人とボウリングへ行く。
大学の部活に入って以来の付き合いであり、数年の付き合いであるが、
お互いがお互いを良い方向へ持っていくことは難しい。
とはいえ、私との関係以外に他の友人を持って幸せに暮らして貰いたいのだが、
まぁぼちぼち遊ぶ機会が多い。
遊ぶと言っても飯を食い、ボウリングをする程度なのであるが・・・。


大学、大学院とそろそろ大学を離れていく人間というのは、
最終学年など特に忙しそうである。
就職活動、または学生時代やり残したこと。
例えば異性関係についてろくに考えたり実践したりしないグループに入れば、
無難というより、もしかしたらある種つまらなく大学生活を終えたことになる。
そういうものを防ごうと、「リア充」になろうと、じたばたしたりして、
忙しく過ごす人間も出てくるわけである。


例えば自分があまり異性関係に活発でないグループに属していて、
自分はそのグループに属していたから大して幸せな大学生活が送れなかったと
後悔する人間もいるかもしれない。
とはいえ、大学生活を幸福なものにする要素の一つでしかないのであるが、
それが欠けたら全てが崩壊してしまうと思いこむ人間もいることだろう。


そんなこんなで、会って以来、お互いがお互いを「リア充」にする関係ではなくて、
そうでないなら「腐れ縁」とでも呼ぶべき関係なのである。
とすると、その関係というのは卒業まじかになるにつれて、違和感を覚え出す。
果たしてこいつと数年遊んだり何だりして過ごして、「得」というものがあったのだろうか。
そんな計算をお互いにしだすわけである。
一方的にされる場合もある。


どんな人間だって、「リア充」的な生活を送りたいという欲望があるものである。
それが大学卒業まじかになって噴き出す。
周りにいる人間は、自分を不幸な方向に導いたのではないかと思いだす。
自分でチャンスを作る機会もあったはずである。
別の友人に乗り換えてもよかったはずである。
終わりになって後悔を人に押し付けられても困る部分がある・・・。


なんだか根も葉もない話であるが・・・。


しかし、周囲(家族も含めて)は私が何度も留年しているために、
私の不幸が伝染していくような感じは確かにある。
そもそも私は「幸せ体質」ではない。
所謂世間一般で言われる「幸福」と言われたり、あるいは「リア充」と言われたりする事柄について、
それが自分に訪れることをむしろ怖がっているようなところがある。
「幸福が怖い」という状態の人間もこの世にはたくさんいることだろう。
そのために不幸ばかり呼び寄せる体質の人間もいることだろう。
他人とわいわいするということが得意ではない。
ただ一人でぶすっとしているほうが性に合っている人間がいる。
そういう人間は、いざ自分が皆とわいわいして一般に言われる幸せな状態が近づいてきたときに、
拒否反応を示すわけである。


そうやっていつまでもなんだか報われない、という時間を送る。
なんだか寂しい、なんだかつまらない、でもこれが自分なのかもしれない。
そういう体質になっている人間もいるわけである。


・・・こんなことをいうと根も葉もない・・・。


しかし、私が数年前からぶつかっている「壁」のようなものは、
このようなものである。それは私の「体質」と化しているわけで、
だからこそ抜けにくいのである。
そしてなぜか「不幸体質」というのは伝染するからたちが悪い。
自分を隔離するといっても、他人との接点はあるわけである。
仲の良い友達もできるわけである。
リア充」と呼ばれる人間がなぜあんなに病的に、スノッブな幸せというのを追いかけるかというと、
最終的に誰にも文句を言われないようにするためなのかもしれない。
「僕と付き合って、君は世間一般で言われる幸せに触れたではないか」
そう言い返すことができるからかもしれない。


金を、異性を、社会的地位をプレゼントしたではないか。
世の中は人と人との贈与関係でなっている。
だからこそ、お互いがお互いに幸福を贈与する。
金を、異性を、社会的地位を・・・。
そのネットワークに入れない人間は、入れない人間同士つるむしかないのだが、
とはいえ入れない人間もそれに興味というのがあり、
ギリギリに追い詰められれば、切望するわけである。
とすると、もっと大胆に友人に「リア充」を追いかけて、自分に贈与してくれと望む人間も出てくる。
大学末期の人間関係というのは、そういう兆候をたまに示す。
私に言われても、困るのだが・・・。