太平洋の奇跡


邦画「悪人」がすごくよくできていたので、他の邦画も見てみようと思いたち、
現在上映されている「太平洋の奇跡」を見に行った。
平日の昼間だから、見事に高齢者ばかり。
その中で二ートのような大学生の私も交じって映画鑑賞。


正直、「悪人」の出来の良さと比べると、なんだかありふれた映画だった。
ここ10年、あるいは10年先にも同じような映画はいくつか作られるだろうというような
出来がよくもない、悪くもない映画だった。
どちらかといえば、「悪い」ほうかもしれないとも思う。


太平洋戦争での旧日本帝国陸軍の大場大尉についてのお話であった。
最初に出てくるのは、これはフィクションではなく実話に基づいて作られているという。
米軍がサイパン上陸して、サイパンを植民地にしていた日本の国民と軍人がサイパン島
奥地に逃げて野営するというお話。


冒頭は激しい戦闘シーンから始まる。
プライベートライアン」とか「硫黄島」とか戦争映画はいろいろ見るが、
銃撃戦の中で突撃するという軍人さんの根性は現代のほとんどの男にはないだろう。
米兵がM13などをぶっ放しているところに、「突撃」と日本刀を片手に
国旗をなびかせ突撃していくのだから・・・。
プライベートライアン」でも確か銃弾行きかう浜辺に上陸するという作戦があったはずで、
海岸は血で染まって赤くなるほどで、なのにもかかわらず上陸する。
あの弾丸の行きかう中に身を置けば大抵の人間は被弾し、
うたれどころが悪ければ即死であるのだが、それを分かりながら上陸する。
想像しただけで、身震いがする。
戦争だったら当たり前なのかもしれないが、戦争を知らない世代の人間が見ると、
昔の人はこんなことをやっていたのかと思わざるを得ない。


機関銃掃射されている浜辺に上陸するときの気持ちというのはどういう気持ちなのだろう。
目の前で大抵の人間は死んでいくのを見ながら上陸するわけである。
中にはグレネードを投げてくる人間もいるだろう。
待ち伏せゲリラ戦法で挑んでくる旧日本帝国陸軍が待つジャングルに入っていく気持ちというのは
どういう気持ちなのだろう。
今の時代に生きている私には想像もつかない。
ジャングルには手榴弾と針金を使ったブービートラップもあるわけで、
草が生い茂るジャングルでは足元も見えないのに、どのように注意すればよいのだろう。
それにかかれば、間違いなく歩けなくなるだろう。
最悪死ぬだろう。
それも激痛のなかで死んでいくことだろう。


ジャングルの中で野営するというのはどういう気持ちだろう。
食べるものもろくになくて、蒸し暑く、マラリア赤痢が蔓延し、
危険な虫や植物だらけの場所で毎日寝泊まりするわけである。
今の私の生活から考えれば信じられないことである。


そもそも日本からはるか遠いサイパンに移住しようと思った人たちは何を考えていたのだろう。
暖かい気候と青い海にひかれたのだろうか。
ジパング」という「かわぐちかいじ」の漫画を読んだ時の南方の雰囲気はなかなかよかったが・・・。
熱帯のからからした天気のもとで、日本家屋がたち、明るい色合いの着物を着た女性が
なんともいえない雰囲気を醸し出していた。
戦争世代はサイパン島と聞いてどんなイメージを思い浮かべるのだろうか。
かつて日本が占領した国。実はそこにはロマンもあったのではないかと思う。
自分の属する国家が軍事力で国土を広げていくわけである。
そこで国家が新たな土地に日本国民の繁栄を望むわけだから、
なかなか好条件で移住せさせたのかもしれない。
日本で良い地位に就けなかった人間は、新しい土地で新たな社会の中で
社会的成功を想像したのかもしれない。


今となってはかつての日本人が考えていたことなどまったく分からない。
しかし、「男たちの大和」といい、懐古的な映画が増えてきているのではないかと思う。
所謂「右傾化」ということなのか。
GHQは日本の教育に多大なる打撃を与え、牙をもたないように白痴化させたが、
現在では規制も緩くなり、逆にかつての戦争賛美ともとれるような映画も増えてきたのかもしれない。
男たちの大和」は一体何を描きたかったのか。
家族、ひいては日本国民を守るために死んでいった兵隊さんへの賛美?
硫黄島への手紙」は何を描いたいたのか。
本土にいる家族のために一日でも本土攻撃を遅らせるために戦った兵隊さんへの鎮魂歌?
太平洋の奇跡」は何を描いたのだろうか。
大場大尉の今の日本人男性は持っていないだろう、度量?


確かに戦前には素晴らしい人間もたくさんいたことだろう。
今の社会と比較して良い部分もたくさんあっただろう。
日本の伝統「武士道」からして、一億層玉砕や特攻という考えは「野蛮」という言葉では
言いきれない部分があるのは確かであろう。
それは日本人がこの島国で育んできた伝統が派生したものだろう。
「同期の桜」という軍歌の歌詞を見るにつけて、かつての日本人はなんと情の深い連中だったのか
と思ったりも確かにするのである。
太平洋の奇跡」を見るにつけ、現代の日本人はこの映画のなかのアメリカ軍指揮官のほうに
共感できるだろう。
「なぜジャップは死にたがるのだろう、彼らは一体何を考えているのか。
戦闘の前日に将校が自決するのは何故なのか」
アメリカ軍指揮官はこのように日本に留学経験のある部下に質問する。
「武士道」という言葉を用いてその部下は上官に説明する。
しかし、日本人である私にも理解できない。
「武士道」というものは戦前に国民教育されていたのかもしれない。
GHQは武道を廃止したから、それによって現代の日本人は「武士道」が分からないという
アメリカナイズドされた日本人になったのかもしれない。


戦争映画を見て、一体なにを本当に描きたいのかという深層が分からない。
かつての日本人にはこれだけ腹が座り、同胞を思いやる精神にあふれた人間がいた。
今の教育はそのような精神を教えないし、だから日本人は幼児化するばかりだ、
ということでも言いたいのだろうか。
しかし、古来より戦争というものはあったわけで、
若い男というのは戦争に駆り出されたのだから、戦争を経験すると男は成熟するというのも
無きにしも非ずである。むしろ戦争など人間の歴史の中で腐るほど繰り返され、
男はそのなかで精神的成熟を迎えるように遺伝子に刻まれているというのもあり得ない話ではないと思う。
だからこそ、戦争とは無縁の国民が幼児化するということももしかしたらるかもしれない。
確かに第二次世界大戦のころを生きた人間というのは凄みというのを感じる。
あのころの歴史も今とは比べようもないほど、獰猛にうねった。
それは信じられないほどだった。
ドイツの収容所では何人ものユダヤ人が残酷な方法で殺され、
広島と長崎には核爆弾が落とされ、無差別に殺された。
一瞬で溶けたと言われる人間もいるほどである。


戦争では、むごい拷問も当然あるだろうし、爆弾で内臓が見えてしまうほどの重傷を負う人間もいる。
ユダヤ人だってむごい方法で殺戮された。
こういうものを「見る」ということは人を成熟させるのだろうか。
そのような状況というのは「大人」が処理するものなのだろうか。
戦争とは「大人の事情」なのだろうか。
子供がなぜ戦争をするのか、と大人に聞く。
植民地を増やすための戦争であれば、なんと説明するのだろう。
イデオロギーのための戦争であれば、なんと説明するのだろう。
国土を広くして国を豊かにするためだと説明するのだろうか。
やつらの政治思想は誤ったものだから、分からせなければならない、というのだろうか。
国益イデオロギーというのは「大人の事情」なのだろう。
それらを論じるのは「大人」なのだろう。
「生きていくために必要不可欠なこと、それは子供には論じさせることはできない」
勝手知ったる「我々大人」がそれを論じ、そして扱わなければならない。
だからこそ、「女子供」の口出しは無用である。
そういう風にして、大日本帝国は負けていったのであれば、
それを考えていた「大人」というのは、実は子供だったのかもしれない。
戦争を高々に論じるのは、自らの「大人性」というのを担保するためだったのかもしれない。
これを論じ、そして実践したるは「大の男」といえる。


世の中には「大人の事情」として触れることが許されない事柄がたくさんある。
私のような二ート大学生をしている「子供」には触れられないものがたくさんある。
エリートにしか触れられない、大の男にしか扱えない何かというのは、
「国家の運用」なのだろうが、それを自信過剰の人間が触るのだから、
人間社会に悲劇が起こるのである。
だったら「国家の運用」はだれがすべきなのか。
この世に完全な人間はいない。
もちろん誤った判断もする。
「子供」ばかりになれば国家の運用はできないし、
「偽物の大人」ばかりであれば、国は誤った方向に進み悲劇は起こるだろう。


そもそも「政治を論じ、戦争を論じ、イデオロギーを論じる」ということは、
あまりにも人間のエゴと結びつきやすい。
それを「論じること」で、「社会の中心、主軸」をになっているという実感を与え、
その「個体」に「生の充実」を与えるというのならば、
そんなエゴのために「政治や戦争やイデオロギーを論じる」人間というのは
「偽物の大人」であろう。背伸びしたい子供である。
論じる資格のない「子供」と何ら変わりがないのだが、資格だけは有しているので始末に負えない。
そもそもどんな世代もいつかは社会の主軸という時代が来るわけである。
子供のころから知っている人間が、やれ「学校の先生」だったり、「軍部のお偉いさん」だったり、
「官僚」になったりするわけである。
子供のころはあんなに馬鹿だったのにね、という人間がそうなるわけである。
あんなに利己的な人間が、あんなにわがままな人間が、あんなに素行の悪い人間が、
人の上に立つのかと思うと同世代を見たらうんざりするわけである。
完全ではない人間が社会を運用するわけで、仕方がないことなのだが・・・。



話が随分ずれてしまった。
戦争について、人間社会について、いろいろ考えたわけである。
「一人前の男」という言葉が、かつての大日本帝国にはあって、
しかし、今の社会では、そんなことはあまり論ぜられない。
人々は自己利益を追求するというお題目を与えられている。
「一人前の男」というのは、自分の欲望などはおいておき、他人の生理を気にするらしい。
そんな言葉自体どこかにいってしまったため、いまでは「似非大人」も本当の「大人」も
大学生レベルではあまりいなかったりする。