実家に帰って話してきた

実家に帰って大学院の書類関係を揃えてきた。
あとは奨学金の存在も無意味にプールするより有効に使ったほうが良いと判断して明かした。


しかし、大学院は卒業できそうなのか、と問われて「正直、よーわからん、これからの自分次第」といったら、
それでは投資したくないと言われた。
そりゃそうだわな、と思いつつ、理系の学校推薦中心の就職活動状況について話した。
多少、コネ的なあれを作らないと就職厳しいよと。
あとは奨学金については、どうもお気に召さないらしく、「勉強する気ない奴が受け取るのはおかしいぞ」と言われた。
貴方の要領の良い娘さんとか、親戚の要領の良い俗物とか、そういうやつらが奨学金貰うのも十分おかしいし、
そもそも今の大学で勉強する気のあるやつがどれだけあるか、とか言い返しそうになったがぐっとこらえた。
勝手に貰ってろ、ということになった。
「そもそも教育というのは株の投資とは本質的に違う」とかも言いそうになったけど、こちらもぐっとこらえた。


こうなるなら奨学金の存在なんかは明かさないほうが良かった。
そのほうがまだ自由であった。
この辺、未来予測が下手糞で、頭の悪さが如実に出ているように思う。


んで、私の親は私に職安に行くことをよく進めるのだけど、この世の中の仕組み的にあまり理にかなっていないように思う。
以下すべて推測だけど、私の中にこんなイメージがある。


まずすべての職という職が、雑多に入ったボウルがある。
人気の度合いによってその職のサイズが違う。人気があるほどでかい粒である。
最初に上の大学の目の粗いザルに通される。
その次に中くらいの大学のそこまで目の粗くないザルに通される。
んで後のほうになって私が今いるくらい大学の目の細かいザルに通される。
これがどんどん続けられていって、最後に職安のザルというかもうほとんどボウルに移される。


これというのは一般論で、例外はいくらでもあるとは思うけど、少なくとも労働者目線で見たら結構成立するモデルじゃないかと思う。
言い方悪いかもしれないけど、職安になるときつい上にお金ももらえない仕事ばかりになるのではないかと思う。
一度も言ったことがないくせに偉そうなことを言うのは申し訳ないけど、そうなのではないかなぁと。
建前的に、私に職安に行けっていうけど、そもそも進める本人たちが恐らく行ったことない。
だからそれでも大丈夫的な世間知らずの提案をする。
今の世の中って資本主義社会とかいいながら、主人と奴隷の関係をその言葉を用いないで成立しているわけで、
奴隷制の時代と大して変わらないとも思う。
一度職安に見学に行くのもよいかもしれないけど。


こんな俗物的世界観な私だけど、この世界観を突き崩すような就職があれば飛びつくのだけど、少なくとも私の周りにはない。
私のような人間には、そういう職が見えないように構造化されているのはなんとなくわかるけど。


でも一度職安に行ってどんなところか見てくるのも悪くないような気もする。
この間の車の中古屋さんに行ったのもよい社会科見学になったし。
知りもしないでイメージを作り上げるのもおかしな話である。
ブログのネタにもなるかもしれない。


あとは実家の近くのブックセンターで本を買った。面白そうな本と出会えたか。


明日からまた学校、大学院生活の序章は明日から始まる。