コメントなど

昨日はコメント欄でいろいろやりとりした。
日々、マイペースに自分の言いたいこと、吐きたいこと、日常の記録など好き放題書いているわけだけど、
他者の言葉が入ってくるとなんとなく様子が違ってくる。精神的にもブログ的にも。
たまに現実の世界の友人と飯屋にいって話すこともあるけど、私はそもそもインタラクティブに生きていはいないで、
自分の世界に引きこもって同じことを永遠と書いているわけだけど、私の外の世界に接する機会はコメントを含め、
リアルを取り巻く状況的にも増えてきている。
ここ何年も、もしかしたら私に対する外からの入力に関しては鈍感でいたかもしれないが、12月からの流れだと、
徐々に徐々に私は外の世界に対して開こうとしてきているように若干思えるし、今年の抱負にも書いたように


あまり自分の意見に固執しないで、流されるように今年はやろう。
いろいろなものに挑戦して、いろいろなものを見よう。
多くの人と知り合う。多くのものを見る。


ということに徐々に近づいているような気がする。良い流れなのか悪い流れなのかといえば、おそらく良い部類であるが、
あいにく私の本性の部分では、ずっと自分で妄想したゆりかごの中でふわふわと漂っていたいという気持ちも無きにしも非ず。
そもそもが外からの入力に対して全く反応しようとしないタイプの人間であり、だからこそ人生行き詰っているのだが、
現実のほうの状況も私に「動け動け」「受け入れろ」と切迫してくる外圧、あるいは流れのようなものの中に私はいて、
引きこもっている私を穴蔵から引っ張り出そうとしている。


何年も前から、こういう強力な外圧というのが私の身の回りには存在していたが、しかし私の蝸牛のような精神が出ていかない。
出ていくくらいなら、鬱病になってやるといって抵抗するくらいの頑固さで、事実精神的に崖っぷちだったこともあった。
何年か前の心療内科通いというのは、こういう外圧に全力で抵抗したというのが実は一つの原因だったのではないかと思う。
外からの入力に対してまったく応答しない人間。
自分を外に晒さない人間。
なにせ蝸牛であるから、殻からでると形を保っていられないのである。


しかしながら今年はこの蝸牛が殻から這い出して、なにか別のものになることを要求されている。
蛞蝓にでもなるのかどうか、殻から出て天日にさらされると溶けてなくなるのかもしれないけど、
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」なのだろう。蝸牛の次には浮き草にでもなるのかもしれない。ぷかぷかと。
別にこの言葉自体に「浮き草」なんて意味はないのだが、この言葉を聞くと「ぷかぷか浮いて漂う浮草」が
私の場合、イメージとして湧いてくるのである。
色々なものががらがらと音を立てて変わっていくけど、(これまで私が拒んでいた分)
別に気にする必要はない。自然に任せとけばそれでよい。気にするな。
泥の中にめり込んだ錨をがらがらと上げるイメージに近いかもしれない。