何故8年なのか

大学生活をなぜ卒業するのに8年もかかったのか考えてみると、
無性にいらいらして、自分の無能を認めたくないのか、まあいらいらするわけである。
受験時代からの積もり積もった思いが噴き出す。
いらいらして、やってられるかとなる。
大学で実験始った頃から、こんなことやってられるかと学校から逃亡し、他のことを始めたわけだが、しかしなぜ8年も。


確かに大学一年や二年の頃というのは、自分が大学に来なくても単位なんて取れると思っていた。
明らかに自分を過信していたし、大学の授業というのはそういうものではない。
かなり専門性が高いし、だからこそ毎回授業に出席しなければ取れない。(文系は知らないけど)
他に、過去問の共有とか実験レポートの共有とか、知れば知るほどイライラし始めて、
こんなところで授業に毎回出て、情報の共有をして一体何になるのかと腸がにえぐりかえった。
その成績で企業への推薦枠が埋まるわけだから、これまた激しくいらだつ。
要するに要領がいい奴が一番得するじゃねーか、ぼけ。
受験時代から要領のいい奴がよい大学に行くわけだけど、その時はまだ純粋でその要領というのに対して
嫌悪感がすさまじかった。
もちろん大学受験の屈辱も相まって、毎日毎日発狂しそうだったのは覚えている。


自分よりも良い大学に通う兄弟や親戚もいて、だからこそ自分が通う大学が面白くなかったし、
要するに自分を囲う世界がすべて嫌だったのであろう。
あれも嫌、これも嫌、今いる環境はすべて嫌。
高校時代の頃なんてさらにひどくて、どいつもこいつも気に入らないといって殺気とか負のオーラというのを
発しまくっていただろうし、(もちろん幼児的な英雄感、肥大した自己顕示欲というのがそれを作った)
いつもいつも孤独だったから、これだけ孤独なら自分はなにか特権が得られなければならないと思ったわけであろう。
コミュニケーションがそれほど上手いとわいけないのに、引っ越しは多く、さらには自我がなかなかの肥大気味の性格だと、
それこそ毎日、理想の自分と現実の自分とのギャップに苦しまざるを得ないし、
そのギャップは自分を苦しめるばかりだから、おのずと知性のパフォーマンスも下がるわけである。


また、その理想の自分と現実の自分とのギャップの理由を、外に求めるわけである。
どいつもこいつも自分の都合のよいようには動かない。そうなるとイライラする。
おまけに私の母親というのは、私と同じタイプの自我が肥大した人間だから、
やたらに人の自尊心を根こそぎ奪い取るようなことを言うタイプであるので、こいつとの軋轢もすさまじいものがあり、
家族と諍い、周囲の環境と諍い、次第に精神的に衰弱したのが大学に入ってから5年の頃だったように思う。
この頃は、家族とも周囲とも、すべて繋がりというものを切りたかった。
私という存在を規定して、さらには動けなくしているのは、間違いなくこの家族や大学受験という文脈である、
そう思ったからであり、この文脈の中にいる限り、私は決して自由にはなれないと思った。
そのために奮闘していた時期もあったが、それは結局失敗に終わった。


分を知れ、という言葉があるが、要するにそうだったのかもしれない。自分のプライドとまったく折り合わない。
いやむしろ、あまりに大きすぎたプライドは私の邪魔をしていたかもしれない。
部活をやっている時は、自分自身のプライドを多少は満たせていた。
なんとかその自尊心を成り立たせるために、自尊心そのものが私を努力に駆り立てた。
とはいっても自分自身は努力をしたという感じではなくて、遊び半分努力半分といったところだった。
それなりの結果が出たし、私は天狗になっていたかもしれない。
そこで私が確信したのは、「私は私をきっちりと導いてくれる環境の中にいれば人並み以上の結果が出せるし、
さらには自分でも信じられないような高みまでいける」というようなことだった。
今思い返してみれば、一つの成功でそこまで自惚れるのは、なかなか笑えるものだけど、
しかしながら当時の私にしてみれば、それまでの人生の屈辱をすべて返す良い機会だったわけだから、
自分自身のからからに乾いていた自信というものを、再び潤すよい機会だったわけである。


去年は去年で、まだ自由になりたいと思っていて、他の大学院に進学しようと考えて、勉強もしていたが失敗。
それまで勉強していなすぎだったので、急に勉強して他大学の大学院に進学しようとしても勉強が追い付かなかったのである。
(特に英語なんかは全然追い付かなかった、ただその不可能なところを可能にするのが自分自身の有能さを証明することだと
やはり考えていて、多分これは一種の揺り戻しの動きで、もとの自己肥大した自分を取り戻そうと考えたのだろう)
それで今年に至るわけだけど、まぁ要するに自虐自虐のオンパレード。
自己愛というのが肥大傾向にあった私は、まったく自分を肯定する部品というのを失ってしまったため、
未来について考えるのをやめた。少なくとも、自己実現と呼ばれるような、
例えば自分のプライドを満たす進路決定というような、
そういう観点から見る未来について考えるのをやめた。(多分そのほうが懸命だとは思うが)
だから今年は他の大学院への進学など考えていないし、さらには合同説明会にも行ったわけだが、
そこで就職について一応ぱぱっとみたけど、それ以上のことは正直なところ考えていない。(それはそれで駄目だとは思うが)


私は要するに、古くなった自分を脱ぎ捨てたわけである。
プライドなんかで自分を動かすと碌な事がない。それよりも自分がやりたいと思うこと、自然にできること、
自然に興味を持つことに対して、なるべく素直でいればよい。今はそれだけのように思う。
もう少し、物事について考えないようにすれば、少しは楽になるかなぁと思う。
研究室に入ったら、研究室で任せられる仕事をすればよい。
それをしばらく続けて、適当に就職したら、任せられる仕事をこなしていけばよい。
もう本当に近視眼的な人間になりそうである。そこには思想もない一方で、案外苦悩というのも少ないかもしれない。


ただ、思うに、プライドだけで自分を動かしているとおのずと限界が来る。
そうではなくて、もっと自然体でいればいいのではないかと思う。
そのほうが、悪い方向へは行かない。ただただ淡々と生きたほうがよいのではと思う。
昔は淡々となんて生きることはできなかったけど・・・。


なぜ8年なのか、という問いについて考えると、随分長くいろいろなことを考えるようである。
8年と聞くと、無性にいらいらし始める自分がいる。
確かにいらいらするわけだけど、しかしそれに対していらいらして、「運に恵まれなかった!」と言い放つ自分というのは、
おそらくあまり良い方向に人生のかじを切るタイプの人間ではないと思うので、
ふとそのような捨て台詞を吐く自分というのをいさめて、さらには自己の情操教育をするために、
私はこのテーマについて、これからも長い長い文章を書くのである。
writing cureだなぁ。


進級の単位計算したけど、改めて自分がぎりぎりの単位数だと思い知らされた。
とはいっても取らなければならない必修科目すべて合わせれば、進級要件を満たすことは確認した。
なるほど・・・。なんとかレポート早く書いて、試験勉強を始めなければならない。