悪人

もう実験レポートの提出は諦めたのか。
自分でもあきらめがつきそうな感じだが、
一方であきらめがつかない感じも残っている。


でも、もう仕方がないと思い、今日は午前11時ころから
定食屋に行き、それから散髪屋にいって長い間切っていない髪を切り、
映画を見るという行動的な一日を送った。


大学生という身分ではあるのだが、ほとんど二ートのような状態である。
二ートが昼間から出かけて映画を見る。



それで「悪人」を見たわけである。


想像していた以上に暗い映画で、現代の日本社会の暗部を表しているというより、
この映画の主人公祐一、あるいはヒロイン光代のような世界の見方をする
人間には共感できる映画となっていると思う。


この映画全体の世界観は、土木作業員祐一と紳士服のチェーン店で働く光代という
「非リア」によるものなのである。
おそらく幸せに生きている人間は、この世界観には共感できないだろう。


祐一などは重くねっとりした雰囲気をまとっている。
完璧な根暗であり、閉鎖的な高齢化した社会の中で「どこにもいけない」
というような感情と一緒に暮らしている。
彼のその世界からの脱出は、愛車スカイラインでの深夜のドライブと、
それから出会い系であった女とのセックスで刹那的に達成される。
しかしそれが終われば、土木作業と老人介護である。


過去には母親に捨てられたという記憶が彼を蝕んでおり、
出会い系で出会った女と昼飯を食べるということはできないし、
会話もろくに続けることのできないほど、知性というものが委縮している状態で、
あった女には最初から「ホテル行こう」というお馬鹿さんである。
髪は野暮ったいほどの金髪に染められて、いかにもヤンキーである。
着ている服は三本線のジャージの上に大量生産品のジーンズである。
このジーンズもいかにも安物であろうという感じを醸し出していて、
地方の根暗な低所得者であり、今後華やかな脚光などを浴びる可能性は
ほぼ0%であろうという窒息感ただよう設定である。


一方で光代もほとんど同様である。地方の紳士服のチェーン店で接客をするという
おそらく彼女が子供だった頃には夢にも思っていない平凡な暮らしをしている。
彼女もながながと続く平凡な日常からの脱出のために、
出会い系サイトで「一緒になって幸せになれる相手」を真剣に探している。


もうこの主人公とヒロインの二人の「非リア」という設定がなかなかすさまじい。
ただ地方においてこれくらいの「非リア」なんて山ほどいることであろう。
事実私も地方の「非リア」である。
都会で、華やかな仕事を洗練されたスーツを着こなして仕事をしている「リア充
とは全く相いれない。


そして祐一が保険会社のOL佳乃を殺してしまう。
佳乃が最後に祐一に言った言葉は象徴的である。
「私はあんたなんかと付き合うような女じゃない」
社会的な身分が違うというわけである。
祐一ではなくて、裕福な大学生の増尾こそが自分の最適な相手だと考えている。
しかし、この佳乃も随分自分の社会的階層を勘違いしている。
彼女はただの保険外交員である。多少、見た目が良い。
しかし、おそらくお育ちはそれほどよくない。
床屋の娘であり、しかしながら大きな旅館の御曹司である増尾を狙っている。


この佳乃をみていて、こういう女はよくいるなぁとやはり思う。
男を査定する目は非常に鋭い。どこまでも冷徹である。
しかし、その冷徹な分析力は自分にだけは作用されない。
自らは床屋の娘であり、なんの教養もない。
ただ若い見た目だけで「玉の輿」に乗れると考えている。
彼女が非常に若いからである。
しかし、別府の大きな旅館の御曹司増尾は自分は彼女のような人間と
結婚するような人間ではないと考えている。
まぁ当然だろう。
きゃぴきゃぴ若いルックスであるが、所詮「ビッチ」である。
彼女自身の価値というのは、その「女としての身体」くらいしかない。
しかしそれは若い女にはそれぞれ不平等ではあるが、
原理的にはすべての若い女に配られていると言っていい何の特権もない
カードである。


もしかしたらこれは日本の階層社会を表す映画なのかもしれない。
フランスのように日本は階層化されていない社会と言われている。
一億総中流と昔言われた。あの頃の日本は世界でも例外的な均質社会であった。
しかし、現代は違う。
東大に入るには親の年収が一千万だと言われたり、
その階級から抜け出すことのできない若者であふれている。
大学生の就職内定率などは6割程度で、社会的な成功どころか、
そもそもその舞台だえ用意されないという具合である。


祐一もそのような社会的成功というものをかつては考えていたのかもしれない。
いや、祐一の家庭は大学のランクや企業のランクなども話にならないような
貧困家庭に育っている。
一方で裕福な大学生増尾などが出てきて、より一層祐一の若い力というのが
どこにも流しこめない社会というのを強調している。
鬱屈した毎日で、「生きているのか死んでいるのか」さえ分からなくなるような
生活である。


そして、この「非リア」の二人がであい、恋に落ちるわけである。
殺人犯の祐一と一緒に逃げ回る腐女子光代。
殺人犯の祐一は自らの罪を懺悔するために光代が必要であったのだが、
(おそらく彼女は祐一にとっては教会の神父のような役割である)
その感情を勘違いして「愛」だと思っている。
一方で光代は、祐一が懺悔するための神父として利用されているのだが、
彼女は祐一が「自分自身」を必要としていると勘違いして、「愛」だと思う。
しかし、祐一が必要としていたのは、懺悔するための相手であり、
その相手が自分を受け入れてくれれば(セックスしてくれれば)
心の半分ほどは救われるような状態だったに違いない。
彼らはその「勘違いの愛」を最後には本当の「愛」だと考えている。
しかし、「愛」の本質というものはそのようなものなのであろう。
全ては勘違いの産物である。「勘違いの愛」でも、やはり「愛」である。


2000年代になってから出てきた、「リア充」とか「非リア」とかいう言葉や、
また、このような「悪人」という映画が受け入れられる社会の素地というのは、
多分日本の来るべき恐ろしい階層社会を予知しているのではないかと思い、
私は心配でならない。


しかし、この映画は非常にリアルである。
まず、光代(深津絵里)のメイクがリアルである。
普通芸能人や女優の「毛穴」などは目立たせないように映すが普通である。
しかし、この映画では佳乃(満島ひかり)の毛穴まで映し、
彼女は食べた餃子のニンニクのにおいまで発している。


地方のリアルな国道を映し、野暮ったいラブホテルを映す。


最後の祐一と光代が過ごす灯台のlocationは、彼らの心情のメタファーだろう。
断崖絶壁で、凍えそうな海風の吹く荒廃した灯台
もはや彼女らには行き場がなく(なにせ先に行こうとしたら断崖絶壁だから)
必然的に彼らの心情など一切考慮しない、社会の権力が祐一を捕まえに来るのを
待つばかりである。


映画としての出来は非常に丁寧に作られている。
最近のハリウッド映画は駄作ばかりであるが、日本映画は捨てたものではない。
原作がいいのかもしれないけど、出演者がそれぞれをよく演じている。
深津絵里はもう紳士服売り場の店員として冴えない日常を送り、
愛に目覚めた女としてすさまじい憑依っぷりである。

ストーリーは非常に悩ましいが、それぞれの役者はその役をきちんと演じて、
非常に分かりやすい。
妻夫木聡の祐一も凄かった。
いつもはイケメン俳優として役を演じるが、顔のむくんだ土木作業員も随分はまっている。